25日 2月 2020
一杯のラーメンをつくって、お客に出すとします。その丼は、たくさんの選択や思考を経た研磨のたまものです。どうしてその材料を選んだのか。どうしてその調理法をとったのか。どうしてそういう形状に加工したのか。どうしてそういう順番で、どうしてそういう提供方法や器を選び、どうしてそういう盛り付けにしたのか。すべてが、選択や可能性の広がりの中からより抜かれた答えのあらわれです。さらには、食事する環境はどうかと、限りなく広がっていきます。 ラーメン屋巡りをかつてはよくやりました。頼れる筋から聞いたり、グルメアプリで検索したりして知った店をよく訪問していました。最近の私は、その「おでかけのダシ」すなわち「口実」が、ラーメンから「コーヒー」に変わったかんじです。 「お食事」のようなボリュームが、コーヒーにはありません。よりお手軽で、楽しむためのシチュエーションの制約がより少ないように思います。お腹がすいていなくても楽しめるし、もちろん食事をする前に楽しむこともできるでしょう。 よりいろんなコーヒーを、かつてより楽しみやすい世の中になったと思います。それこそ、私がラーメン屋に頻繁に行っていた10数年前よりも。この経過のあいだに、よりいろんなスタイルで、よりいろんなコーヒーを楽しめる店が増えました。 また、コーヒーの周辺にある楽しみをサポートするような環境や仕組みやサービスも増えました。たとえば雑貨屋さんやデパートなんかに行くと、必ずと言っていいほど、コーヒーを楽しむおこないの周辺にある器具の類いを見つけることができます。 何かをする、そのおこないの口実になってくれるのです。その口実が「コーヒー」じゃないと駄目ということはまったくありません。実際、かつての私でしたら、その口実はラーメンでした。うまいラーメンを食べさせてくれる店に出かけて行って、食べて満たされて、帰りがけにその周辺の街を散歩して帰ってくるなんてことをよくやっていました。ラーメン帰りのコーヒー、なんてこともあったなと思い出します。 昔よりも、私が、より高いカロリーの含まれた、より量の多い食べ物を必要としなくなったせいかもしれません。現在でも、ラーメンを食べる機会は、減ったにせよ、なくなってはいません。ラーメンがそうじゃないなんてことはまったくないのですが、コーヒーの方が、家で楽しんだり、店で楽しんだり、屋外で楽しんだり、一緒に楽しむ仲間の種類や人数などの規模もより自由で融通が利くように思います。もちろん、重ねて強調しますが、ラーメンがまったくそうじゃないわけではありません。私の近年のスタイルと、「コーヒー」周辺のことがたまたま同調してきたなぁという感慨があります。 たとえば、右に行ったことがあると、ついまた右に行ってしまいがちです。そこで、左に行ってみるようなことを楽しんでいるのです。 お読みいただき、ありがとうございました。 青沼詩郎
24日 2月 2020
私はコーヒーを毎日飲みます。が、コーヒー豆を細かく挽いて、その粉を「がばちょ」と飲み込む訳ではありません。フィルターにセットして、お湯でおいしいところ、入ってほしいところを液にするわけです。抽出ですね。...
23日 2月 2020
象の存在って、ファンタジーですよね。あんなにでかくてユラユラしていてたくさん食べてたくさんうんちする生き物は不思議でなりません。鼻(くちびるらしいですね)も長いですし、器用に動きます。でも、確かに、私は象が実在することを知っています。実物を見たこともあります。触ったことはさすがにないですけれど、においの粒子なら私の鼻の粘膜に触ったと思います。 私は、たまに、妖怪になります。たまになんかじゃないな。けっこう、しょっちゅう妖怪になります。たとえば、こども(三歳)がごはんをなかなか食べないときなんか、私はへんな妖怪になります。どんな妖怪かというと、こどもが「ごはん、食べたほうがいいんだろうな」と少しでも思ってくれそうな妖怪です。そうしたものに私はなって、こどもがごはんを食べるように仕向けようとするのです。それで、ごはんを食べてくれるときもあれば、食べてくれないときもありますが、まぁ最終的にはたいてい遅かれ早かれ、食べてくれます。 そんなようにして、「着替えてほしい妖怪」とか「歯磨きしてほしい妖怪」とか「トイレ行ってほしい妖怪」とか「就寝してほしい妖怪」とか、いろんなものに私はなります。「妖怪」の部分を、「変態」と呼ぶこともあって、たとえばこどもが食べ物で遊び始めたときなんかに「あ! (そういうことをすると)食べ物大事にしてほしいヘンタイ来るよ?」と前置きします。こどもは楽しがって、結局、「大事にしてほしいヘンタイ」が来ます。で、事態が悪化することがないともいえません。 人間って、それ自体が変幻自在で、いろんなものになります。妖怪なんかも、ほとんど人間じゃないかとも思える、そんな見方ができると思います。たとえば、人を殺す悪い妖怪だとかに、実際、人間がなっているじゃないか、とも思います。極端なたとえです。そんな悪い妖怪がいるのかどうか私は知りません。悪いたとえですので、妖怪や妖怪のことを好きな人にあやまらなくちゃいけないかもわかりません。(だとしたらごめんなさい!)そんなのは、妖怪じゃなくてただの悪、かもしれません。ただの悪なんて生易しいものじゃなく、非道い悪。 まぁ人殺しは極端な例だとしてもですね。やたらとお金やモノに執着するとか、がめついとか、やたらと人に優しいとか、いろんなものに人はなるのです。いてくれることが、本人や誰かがうれしくなったりやさしくなったり楽しくなったりするきっかけになる、そういうものだってあると思うのです。そういう「いい妖怪」に、人がなる局面も多いのではないかなと思います。もちろんその反対で、だれかを困らせたり、追いつめたりするものになってしまうことだってありえるわけです。 「ある」と思ったとき、その時点で「想像上」に存在することになります。そのことが、心の構造になるのですね。現実の存在ならば、「想像上」から「想」がとれて、「像上」になる程度の違いです。「上」があれば、「中」や「下」もあるかもしれません。「上・中・下」以前に、「像」そのものかもしれません。像から「にんべん」をとれば、「象」になりますね。 大陸が動くくらいですから、「固くて、止まって」見えるものでも、ながい時間の経過をぎゅぎゅっと縮めて見たら、ドロドロでユラユラでサラサラです。 お読みいただき、ありがとうございました。 青沼詩郎
22日 2月 2020
・うがい、手洗い、体調管理。 私はひんぱんに歌う活動をしているので、声の健康が最大の関心事です。いつも、いかに体調管理するか考えています。そのわりには隙だらけなのか、あの手この手を実践している気になっては風邪をひく、ということを繰り返しています。 ・早寝した次の日はつい夜更かししちゃう。...
21日 2月 2020
10代くらいの頃に、宝くじを遊びで1枚買ったことがあります。買った当時の記憶はほとんどありませんが、確か買った事実があったなと。ですので、買ったことで、「当たる可能性がなくもない」などと気持ちがふわふわしたとか上を向いたとか、そういう記憶もほとんどないのです。「10枚買えば絶対に1枚(300円)当たる」と聞いて、本当に買ってみようという気になったのだったかな。300円で買って、仮に300円当たったからといってなんなのだと思わなくもありません。当時の私が何を考えていたのかは、まったく覚えていません。 あることを「事実にしたい」とき、その事実をつくることが、その達成になりえます。で、「宝くじに当たる」というのを事実にしたい場合、宝くじを買わないとそれを事実にすることはできません。(もらう、もあるかもしれませんが。)で、この場合は、自分の努力で当選の可能性を左右することはできません。もちろん、たくさんのお金を費やして、より多くのくじを買えば当選の可能性は高まります。ただ、1枚のくじが秘めた「当たるポテンシャル」に違いは生じえません。 「何かのプロになりたい」という場合、たとえば、「自分の何かの提供の見返りにお金をいただくこと」を仮にプロの定義だとして、「じぶんのしたことの見返りにお金をいただく」という事実をどんどんつくっていけばいいわけです。その事実の積み重ねこそが、その人をその仕事における「プロ」にしてくれるでしょう。もちろん、プロの定義を「その仕事のみで生活にかかるすべてのお金を稼ぎ出していること」などとした場合、そのハードルはいくぶん高まるかもわかりませんけれど。 いきなり、自分の供するサービスや商品をひとつあたり「10万円」で売るのが無理だとしたら、もっと低い値段からはじめて、だんだん単価を高くしていく方法があるでしょう。もちろん、順調に単価を高めていけるかどうかなんてことは、場合によるでしょうから、すべてのケースでうまく行くか知りません。人が語るケースって、「うまくいったケース」である場合が多いと思います。ですから、「ノウハウ」がすぐ流通します。「すべてのノウハウ」は、中古なのです。うまくいかなかったケースは、その多くが語られないでしょう。友達とのお茶の最中に登場するという機会くらいならば、あるかもしれません。 ところで、宝くじに当たると、いろんなところから人が寄ってきたり声がかかったりするので、「むやみやたらに口外しないでくださいね」なんて類いの一連の指南を記載した冊子がもらえる! という都市伝説(?)を耳にしたことがあります。「すぐに仕事を辞めたりとかしないように」などとも書いてあるのだとか。 宝くじを買って、当てて、もらえたお金で生活している人がいたとしたら、その人は、「プロの宝くじバイヤー」ということになるでしょうか? その人の仕事はつまり、「宝くじを買うこと」。たくさん購入資金を用意して、一枚でも多くの宝くじを購入すれば、それだけ当たる確率は高まります。ですが、その費用すべて(いえ、10枚に1枚は300円が返ってくるから、9割?)が無駄になる可能性もあります(むしろその可能性が高い?)。「プロの宝くじバイヤー」は、だいぶ難がありそうです。なりたいとも思えません。 ぜんぜん実現の可能性がなさそうだが、それでいて考慮すべきことを指して、「万が一…」などと前置きしてつづけることがあります。ですが、「万が一」は結構起きるのですね。たとえば、私の住む自治体には約20万人の居住者がいます。その範囲で「万が一」を拾ったとしても、20人いることになります。組織や集団とみなすのに十分な人数に思えます。1億人を抱える国の「万が一」でしたら、10000人ですね。これを、「結構いる」とみるか、あくまで「レアケース」と見るか? 私には、「だいぶいる」ように見えます。「万が一」は、「起こらなそうなことの前置きに使いがち」な割には、「だいぶ起こりやすい」のかもしれません。私がこの表現を使う際には、「億が一」くらいに直した方が、よりニュアンスが正確になるのかも? あるいは、「万が一」を使う基準を、「結構、現実的に起こるぞと思えるとき」に改めるかですかね。 お読みいただき、ありがとうございました。
20日 2月 2020
人は、生きていれば、「いつまでもそのときのまま」じゃいません。変わっていかない(ように見える)部分があったとしても、変わった(ように見える)部分が常にあるはずです、再会するたびに。 私は、よく、友達のことを意識します。頭の中で思い出すというだけです。その人の存在を想像します。その像は、最後に会ったときの姿です。そこで止まっています。...
19日 2月 2020
「夢」に関して「お前どうなのよ」と言われると、私はたじろいでしまいます。ですので、ほかの人にもそんなにむやみやたらには聞けない、ハードル高めの質問かもしれません。...
18日 2月 2020
思い出すだけで恥ずかしかしい過去の体験ってありますね。主に恋愛に関わることかな〜という気がしますが、それ以外にももちろんあるでしょう。それって、生々しすぎて、なかなか言えません。青臭いから、開陳するようなものじゃない。青臭さなんて、自分にも他者にも、めったに嗅がせたくないからです。...
17日 2月 2020
正解であろう方角がまったくわからない状態で、間違いをおかすと深刻なリスクが伴う場合、「そっちじゃない」と言われたときに、私にできることって、「止まること」のみなんじゃないかと想像します。へたに動いて、また「違う」ひどければ「ばかやろう」と言われる、咎められることが怖くて、何も出来なくなってしまうのじゃないかと思います。...

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