地球環境のパブリックビューイング

自分が子どもを持つと、あちこちで見かける子どものこともつい見てしまう。

いま何歳くらいで、どれくらいの発達度合いなんだろうかと思う。

街にある、親子連れの快適さのために設けられたスペースなんかもよく目に入るようになる。

つくづくこんなにあったのかと思う。

10代の頃なんかは、そうしたものが目に入っても認知していなかったに等しい。

そうやって、自分に関連の深いと思われるものを人間はキャッチするようにできているみたいだ。

高齢者が多くなっている世の中だというけれど、今の僕は高齢者そのものよりも、それに関わる施設の多さが目につく。僕の街では、更地にされた土地に新しく出来るものは、十中八九、高齢者関連施設であるという個人的な実感がある。

高齢者そのものよりもそうした「ハコもの」が気になるのは、今の僕が自分の街に、新たな居場所を見出せる可能性があるかどうかを期待している証拠といえる。自分が過ごしたり、利用したりできる場所ができないかと思っているのだろう。

僕自身はいま31歳で、高齢者の気持ちを身をもってわかるよ!というには若造すぎる。

僕の両親は60代なかば、ちょうどリタイアという節目をまたぐ年頃で、生活に多かれ少なかれ変化を迎えている最中である。

職業面からくる生活習慣に変化を迎えている最中だけれど、心身もそれなりに若々しく、お互い好きな趣味や活動をもって仲良くやっているから、彼らが高齢者になりつつあるという実感が僕にはまだない。

4人の祖父母たちは、その3人が介護付きの居住施設で最後を迎えた。母方のばあちゃんが1人、じいちゃんと過ごしていた施設で今も暮らしている。最近は発語があやしくなり、寝ていることが圧倒的に増えている。

僕は僕なりに加齢しているけれど、自分や身近な人が加齢によって出来なくなることが増えていく実感はまだ持てていない。ばあちゃんはたまにしか会わないからだ。そして両親が元気なことが1番の理由だろう。

最近、きっかけがあってマンホールについてたくさん調べた。日々なんの負担も感じずに、水洗トイレのレバーひとつで汚物とお別れできる生活を支えているのは、整備・管理された下水道の存在によるものである。

地球環境、人間が長く暮らし続けていける環境には興味がある。自分たちが楽をして、自分の子どもが苦労を強いられる世界にはしたくない。今の人間も未来の人間も、そのどちらもが快適に過ごせる最適解はどんなものか。両者のバランスをとって成り立つ世界がどんなものかに興味がある。

200年くらい生きてみたいと思うのは、そんな未来を自分の目で確かめたいからだ。

200年生きた先で、あと400年先を見たいと思えるだろうか。

まずは50年先を見て考えたい。