不器用富豪

僕は結構器用にいろいろこなしてしまうタイプです。

そう思い込まされかねないようなかんじで、周りからおだてられたりすることも、これまで少なからずありました。

もちろんそうやっておだててくれる言葉たちは、何の根拠にも責任にも基づくことなく、社交辞令のようなものとして発せられるものも多分に含まれているわけです。

「器用貧乏」という言葉がシックリきてしまう自分を自分でおだてるために、僕はよく「貧乏なんかじゃない、器用富豪だ」と自分に言い聞かせてきました。

大人になってそれなりに経つころから、だんだんそんな僕の「不器用さ」を認める人が周囲にあらわれはじめ、いつしか僕自身も自分のことを「不器用なやつだ」と思い始めました。

いろんなことをそれなりにこなしてしまうけれど、ひとつのことで大成しない。それはもはや器用などではなく、大局的には不器用のドまんなかではないか、と。

一周まわってナントやらというけれど、一周まわって勢い余り、半周余計にまわって「不器用」になってしまったのかもしれません。

不器用な自分を認めると同時に、思いました。不器用でもいいじゃないかと。

器用貧乏でも器用富豪でもなく、「不器用富豪」の道をいくのだと。

ここでいう「富豪」とは、お金のあるなしをいっているのではありません。お金は豊かさのあらわれでもあるけれど、あくまで尺度の中のひとつです。不器用でも豊かに生きられる。それを体現してやろうじゃないかと。

ひとつの分野において、すばらしく透き通った「窓」からひたすら深く、誰にも見えない海の底まで見通すプロもいます。

僕はといえば、がたぴしと音を立ててきしむ戸にはめ込まれた、ぼやけた人影しか見えない磨りガラスを必死で覗き込み、向こう側の実像を想像で補おうとしています。

ぼんやりとしか見えないから、色んな方法で見ようとするし、ひたすらいろんな角度を探ります。

しゃがんでかがんで這いつくばって、飛んだり跳ねたり背伸びをしたり。脚立に乗ってオペラグラスを覗くこともあれば、ビデオに録った映像をモニタ越しに見つめもします。

磨かれる前の原石みたいな、手つかずの「窓」をコレクションするように、ひとつひとつにえも言われぬ愛着を感じます。

そうやってぼんやりした「核心」をあらゆる角度から、あらゆる窓から覗き見ながら、壮大な立体物としてとらえようとしているのです。