A⇔Dコンバーター

語尾をどう言い表すかで、その一文の内容に対して自分がどれくらいの根拠を持っているかが表れるように思う。

かなり自信を持って「〜だ」と言いきれるのは、裏付けとなる根拠を持っているときともいえる。

間違えることをおそれると、断定するような言い方は避けたくなる。

間違った場合のリスクが大きい、もしくは計り知れないときほど「〜かもしれない」なんて言いかたになるかもしれない。

論争や議論そのものが目的のときは、多少間違ったとしてもオーバーに言うことで、場を活性化させる効果があるように思う。それを狙って自信や根拠が足りなくても断定したような言い方をするのは、ひとつのテクニックともいえそうだ。

間違っていたら、誰かに噛み付いてもらって正してもらえばいい。それで気付きが得られれば、その議論は有益だったといえる。

噛みつかれることの傷や被害がどれくらいか、それに対して得られるものがどれくらいありそうかを瞬時に判断する反射神経みたいなものもあるんだと思う。

議論をスポーツみたいな競技としてとらえた時に、重要な能力かもしれない。

ひとりで何かを書いたりするときは、他人の介入がないので、ある程度自分のペースで論理をはこべる。時間の制約などはあるかもしれないが、予想しなかったキラーパスにたじろぐようなことはないだろう。

わからない、断定できない、もやもやしている、迷っている…など、語尾の選択を悩ましくさせる要素は色々ある。ただ、なるべくそのままを伝えることを心がけたい。迷っていることがちゃんと伝われば、切りひらくためのヒントをくれる人が現れるかもしれない。言葉にする、語尾を決める(決めようとする)ことで、迷っている自分を自覚できる。それだけでも得るものがあったといえる。

無限のグラデーションをもつ、アナログの世界のデジタル化。

言葉にすることは、全体の一部を単純化して切り出すようなものである。

ただでさえすべてを伝えるのには不十分なのだとしたら、せめて語尾をはっきりさせることは最低限のマナーともいえそうだ。