懐中時計楽団

人生を1日(24時間)にあてはめたとき、自分の年齢を3で割ると、今が一生の中で何時くらいかがわかる。

という話を聞いた。

71歳まではその日のうちだが、72歳になる頃に日付が変わってしまう。そこから先は新しい人生ということだろうか。

最近話題の中学生棋士なんかは、朝の5時くらいでマスコミを大勢集めて見守られながら将棋を指していることになる。

何時頃にどんなふうに過ごすかは、その人次第である。

釣りに行く人だったら、午前3時とかにゴソゴソ起き出して家を出て行くだろう。僕も小学生のときよく釣りに行った。小学生なかばくらいの年齢を3で割るとなるほど、午前3時くらいである(ただの偶然)。小〜中学時代をピークにだんだん行かなくなったが、今でも年に1回くらいは何らかの形で釣りを楽しんでいる。

今の僕は31歳なので、10時20分くらいということになる。寝坊して起きたらこれくらいの時間のときもある。ここから始まる1日もあるし、3時から釣りに行く1日もあると思うと大違いである。

今日や明日の元気のために、寝坊が役に立つならそれもいい。過剰な早起きが今日や明日に支障をきたすなら考え直すべきだろう。

人生が何回もあったら、今回の人生は次に来る人生の準備のためにすべて費やす、とかも選択可能だ。

現実にはそれはやれない。人生は1回きりだからだ。

ひとりではやれないが、誰かに託す人生はある。意図的に託されてきたかは別として、現状の世界が実際、先人たちに託されてきたものの結果である。僕自身の存在も、両親やら何やらから、何らかのものを託されてここにある。

託されたものは、無駄にはしたくない。色をつけて次に託したいとも思う。付け足し続けたら、そのうち託すものが大きくなりすぎる。時代に合わせて一部を作り変えたりしながら託していくのが、次の世代へのおもいやりかもしれない。

0時のスタートをきる前の胎児から、2周目のスタートをきった72歳を過ぎた先輩まで、あらゆる人の時計がたてる音がチクチクと聞こえてくる。10時20分の僕は、これから昼食ありついたり、そのあと眠くなったり、南中後のカンカン照りの太陽にやかれながら滲み出る汗を拭い、夕方を迎えて、やっと涼しくなったと思うのか、もう1日が終わってしまうと思うのか。はたまたその両方か。

戒めにも勇気づけにもとれるお話。