ノートの爪痕

体得することって大事だなぁと思います。

ちょっと気になったものはスマホで写真にとっとこう。ちょっとでも興味のある本はアマゾンで1円の中古本買っとこう。あとでじっくり見たり読んだりして、活かせる機会があるかわからないけど。

そんな風にたくさんストックして、使わないままになっている資料が数多あります。

出会って関心を持ったそのタイミングが好機だったりして、時間や気持ちに余裕があるときに出会えたものは、一定のところまでその場で追求し体得できたりします。

なかなかそんな余裕がなくて、とりあえずスマホで写真を撮ったりメモをして、あとで検索してみよう、なんてことが多いです。

そうやってあとから余裕のあるときにじっくりふれて体得するに至るものも中にはあるのですが、うやむやになったまま忘れられたり、引き出しの奥にしまい込まれるようにして「体得」される時期を待つタネたちが多かれ少なかれあるように思います。

スマホで写真を撮ったりすることは、あとから思い出すためのきっかけになったりしますが、対象のものを撮っただけで満足してしまったような気持ちにさせる効果も少なからずあります。

出会ったときの体験をいかに体に刻みこむか、いかに体得するかが、「資料との出会い」を超えて「経験」に昇華することだと思います。

その場で深掘りできなくても、「あの時のアレが使えるかも」なんて思い出されるものって、出会ったその瞬間にわずかでも消えないツメ跡のようなものを残していたりします。

読み書き自由、削除も初期化も思いのままという機械のメモリのようにはいかない。人間の記憶は、しわが寄ったり端が折れたり、かすれたり黄ばんだりする一冊のノートのようなものかもしれません。自分次第で伸びたり縮んだりする、不思議なノートです。