記憶の中洲

いくらネットが世界につながっているからといっても、個人の「メロンパンおいしい」みたいなつぶやきが世界中に拡散されるものであるとは、一概には言えない。「あっ」と言うよりも速く新しい情報に埋もれてしまうだろう。良くてもごく限られた人の視界をよぎる程度だ。

一方で芸能人が「この店のメロンパンはおいしい」とつぶやいたら、その店に問い合わせが殺到したり、昨日まではなかった行列が現れたりすることもある。

発信力の格差みたいなものが見てとれる。

そう思えてならない。

真面目に、真摯に考えたことを書いて公開しても誰にも相手にされないこともあるし、一方で深夜のコンビニ店員の悪ふざけ動画みたいなものが炎上したりもする。

求められるものには必ず商機をみいだす人がいて、いずれ供給されるだろう。誰かに求められていなくても何かを続けるということは、その人自身がそれをすることを求めているのかもしれない。

真面目すぎる人が相手にされなくて、悪ふざけがすぎる人が注目される。そんな状況をネットが助長しているかもしれない、なんてことをふと思う。

真面目にも幅があって、みんなが関心のある「真面目」と、個人的すぎたり「今はそこじゃない」といわれるような真面目があるのでは、と気付く。

求められるものは現れる(供給される)し、そうでないおこないはその人自身のためであるとするならば、誰にも相手にされなくてもその人にとって重大な「真面目なおこない」があるように思う。

発信力の格差とか、真面目と悪ふざけの二極化も、求められたための現状といえるだろうか。

ネットがなければ、個人の真面目な思考も、その場だけの悪ふざけも、本人たちの記憶の中にだけ浮かんで、やがて流れ去ってしまう。

それをつなぎとめる、係留する機能をもつのが、ネットである。係留されたものに引っ掛かるものが多いと、やがて巨大化し、中洲や島のようなものを形成して、流れを大きく変える存在にもなる。

なにものも引っかかることなく、ただ存在を知る個人のみが見つけることのできる場所に、いつまでもひらひらとたなびいている記憶の目印が、幻想と現実の間で揺れている。