完結までのストーリー

どんなものも永遠には使えない。

消耗し、流動する。

生産から消費までの距離がさまざまあって、

自分はモノを作っているとか、

自分は消費してばかりだとか、

そういった個人の認識にも距離や幅がありそうである。

実際のところ、生み出す行為とそれを受益する行為のあいだには、さほど隔たりはないのではないかと思う。

それどころか、根源的には同質のものなのではないか。

僕は音楽をやっている。

自分で歌うための曲を作ったりしている。

自分の納得するように自分のためにやるのが、僕が音楽をやるうえで今も今までも1番優先してきたことである。

自分のために生み出して、自分でその恵みを受益する。ありがたくいただくのである。

人々が協力しあい、役割を分担して発展してきた。社会が大きくなって、文明が進んだ。

個人で生み出して個人が受け取って完結していたものが、完結までのストーリーが非常に長くなった。

個人の範囲をとうに出ているのである。

それがゆえに、とんでもなく働いたり、とんでもなく豪勢にしたりする人の偏りが生まれている。

働いたり楽をしたりの偏りで済めばまだ良い。

食料の所在が偏って、食べ物を捨てている国もあれば、食べ物にありつけず命を落とす人を抱えた国もある。

だからといって、僕個人が反省し、食料を買いすぎて余らせないようにしたとしても、企業が廃棄する大量の食料の前では、自分の反省と努力が馬鹿馬鹿しくなってしまう。

長いことかけて、大きな規模で、たくさんの人、もの、種族がせめぎあって形成された世界のバランスを、急に個人が変えることはできない。

ものを見て、知って、信じるものを自分で選びとるくらいのこと。

個人にできるのはそんな程度だ。

ただ、これもあたりまえのようで非常に幅が広い。

ひとりひとりがそうやってものを見、知り、信じるものを選びとったすべての距離をつなげると、地球を何周もするようなことだってたやすい。

この考えを馬鹿にしてよいものか、まずはあなたが選びとってください。