誰かと会って話をしたりしているときに、子供のときにもおんなじような言動をしているその人の昔の姿を想像することがある。
この人きっと、昔からこんなこと言ってたんだろうな。
あ、今この瞬間のこの人の行動、子供の時から変わってなさそう。
そんな風に感じることがある。
言葉を使いこなし始めたばかりの子供や、他人と広く関わりを持ち始めた小中学生くらいの子の言動なんかに、大人になっても似たようなことを言うんだろうな、なんて思うことがある。
現在のあどけない姿とその発言とのギャップに、違和感と頼もしさの入り混じったような感服を覚える。
自分の理屈や論理、目の前で起きている事実を、自分の知識と照らし合わせるような考察を披露する男の子。
自分や他人をコントロールし、関係性を築いたり、調整を試みる女の子。
そういった言動に、僕はときたま彼らの「大人」を垣間見る。
今は大人の姿になったその人の言動の中に見る、あどけない少年少女だったときの姿。
今は幼い姿かたち、声を借りて喋ったり行動している少年少女の、未来の成熟した姿。
それらが混在する国、その領域の中においては、大人と子供の区別はない。
そこにはただただ、真なるそのものの姿があるだけである。
膨大な言葉や規則といった道具を、成長の過程の中で手に入れる。
大人になるほど、自分の部屋がそんな道具で溢れて、埋もれて、昔からあるものの所在がわからなくなることがある。
自分の子供の頃から変わらない部分はこんなところです、と、自分自身で即答するのは案外難しいかもしれない。
けれど、他人の目から見たらきっと丸見えなんだろう。
どんなに優れた道具に囲まれ、どんなに重厚な設備に身を置いたとしても、
その人はその人でしかない。
年齢不詳の、自分だけの専門家。
みんなの胸の中に棲んでいる。