夏の大気と一年草の遠景

僕にはあまり、遠景というものがない。


いつも明日やあさってのことで頭がいっぱいだ。


いちばん遠くても、年度内程度のビジョンがせいぜいである。



きれいに咲いていた花が、花びらを落とした。


これは種子かな。


珍しいなぁ。


こんなふうになるのか。


家の近くの、地べたの花の変化に目が留まる。


自分を含めた、近くにあるものの日々の変化。


それらを受けたり発したりするくらいの大きさなのだろう、僕の器(うつわ)は。



これが何につながるのだろう。


このことが、どんな未来を引き寄せるんだろう。


どんな可能性が見込めるんだろう。


気になったものを、深くつきつめて考えることはよくある。


処理能力が高くないようで、僕はあまり多くのことを並行できない。


頭の中の話題のタネがひとつやってきたら、ずっとそのことを考えている。


発芽し、成長して花をつけ、次の種を落とすまで考える。


そのクール(期間)が、僕の場合はせいぜい1年くらいなのかもしれない。



植物には、一年草や多年草といった観点で分類できるものがある。


僕の頭は、植物だったら一年草とでもいえようか。


発芽と開花を繰り返し、短いスパンで地道に根を伸ばし、枯れながら、風に種を運ばせて、去年咲いた場所のすぐ脇に、ときには思わぬ遠くに運ばれて、また地面に舞い降りる。


家の周りの草を観察するだけでも、毎日得られるものがかなりある。


僕の器は、それだけでじゅうぶんいっぱいになる。



世界は大きい。


僕は、小さい。



風に運ばれる夢を見て、


自分の庭の風を読む。


夏の大気の不安定さが、


かたわらの草を揺さぶる。