発酵と逃避の錯誤

誰にも邪魔されない環境で、集中して観賞したい。

そんな風に思える映像と、そうでないものがある。

そうでない類のものは、軽い気持ちで観ることができる。

観るというか、再生する、かけ流しにするといったニュアンスが近いかもしれない。

洗濯物を干しながら、お酒に酔いながら、スマホをいじって別のことをしながら。

リラックスしたいときに、テキトーに点けておきたい。

テレビ番組の録画などで、僕の中で大別される分類、その分け方の基準。「テキトーに観られるかどうか」というものがある。

僕がテキトーに観ることができるものに共通する特徴をいくつか挙げてみる。

まず、あまり画面に集中していなくても、音である程度内容が伝わってくるもの。ナレーションが入っているものや、トークが中心になっている構成のものがそれにあたる。

次いで、内容や画面の構図の展開の予想が容易なものだ。いつもだいたい決まった構成で展開するもの、自分の予想の範囲内に収まるようなものは、集中を欠く瞬間があっても、巻き戻したりすることなく好きなときに復帰できる。(ひどいときには番組が終わっている)

たとえ新しい作品であっても、すでに存在している作品、ジャンルや形式に則って、焼き増しするかのように作られたものは、新しい要素がなにもない。そういったものほど、僕はテキトーに観られてしまう。何も馬鹿にしたり蔑んだりしているわけではない。テキトーに観てリラックスできるので、むしろありがたいと思っている。軽い気持ちで観られるものも、ときには必要だ。


ここまで書くと、「テキトーに観られる」に入らないものがどういうものか、ある程度浮き彫りになってくる。

まず、音と映像、それらの強弱や「間」のとり方、媒体の持つ可能性をフルに使って表現や構成がなされたものが挙げられる。

映画なんかはだいたいこれに入る。チカラの抜けた作品も中にはあるけれど、画面、セリフのひとつひとつを集中して拾っていくことでその作品を十分に楽しめる。

あらゆる手段を使って、用いることのできるものの可能性をすみずみまで探究した表現、構成を提示してくるようなもの。そうした要素を含んでいるのは、尊敬する人物やアーティストの作品そのものだったり、またはそうした人を特集したものだったりすることも多い。

大好きなバンドのライブ映像とか、大事にしすぎてなかなか観られないまま時間が経ってしまうようなこともある。

自分や自分の歴史的背景に大きく関わるような、重要な資料となりえそうなものほど、気軽な気持ちで向き合うことができない。

しばしば、そうした状況がうしろめたく感じられてしまうことさえある。

自分はなにか本当に大事なものから逃げているのではないか。

目を逸らし続けているのではないかと。

10代の頃には興味を持てなかった、食わず嫌いしていたような類のもの。かじってはみたけれど、深入りできなかった作品。そういったものが、時を経ることで後の自分にマッチすることがある。

「逃げ」は「遠回り」でも「道草食い」でもある。

「発酵期間」なしには醸成しないものもある。

より美味いものを味わいたい。

より素晴らしい体験をしたい。

そんな思いがあるのかもしれない。

「発酵期間」を「逃避」と勘違いすることはないよと、自分を慰めてみる。

「逃避」を「発酵期間」と勘違いしていたら、

たいそう手痛い僕である。