作者によって死ぬまで筆を入れ続けられたという、そんないわれのある絵画とか交響曲がある。
そうしてその芸術家の死後にようやく彼のもとを離れ、世に出た作品もある。
かたや現代はインターネットで配信・発表をし、作品の改稿をおこなうこともたやすい。
もちろんネットから切り離されてダウンロードされたデータは残るけど、間違いがわかったり、発表を続けることがふさわしくないことが発覚したら、すぐさま配信をやめることだってできる。
この即効性、随時性はやはりネット特有のもので、充分に留意した上で利用する必要がある。
複製や共有もハードルが低い。
あとになって恥ずかしいものが、簡単に出回り続けることが問題になるようなこともある。
印刷や製造といった過程を経ないことによる、覚悟の不足。吟味の不足。推敲の不足。
「足る」ことを目指して実現したシステムが、こんな「不足」を招くなんて思いもしなかっただろうか。
ハードルの低さが、「不足」な部分を「不測」なままに発信の門を通してしまう。
考え、予測することなしに発信がかなってしまうのだ。
すばらしい考え、すばらしい予測を、瞬時にたくさんの人に伝えることが実現するシステムであるのに、である。
24時間買い物が出来て便利なコンビニに、深夜に集う人の騒音が近隣に問題視される。
よりキレイに快適になるために整備された生活基盤が、少し都市を離れた場所の環境に負担をかけていたりなんてこともある。
簡単に、便利になるほどに、使う人の使い方が問われる。
慣れてしまって、麻痺しているようなことって、生活の中にけっこう潜んでいることが多い。
それだけ選択肢や仕組みに恵まれている証拠でもあるのだけれど、その存在が背景に馴染んで、すぐに迷彩化してしまう。
よーく目を凝らして、もともとの輪郭を見てみたい。
ときに歴史だったり、原因となるものの変遷を発見し、そういうことかと膝を打ちたくなるようなこともある。
こんなに近くにいたのか。
僕を驚かせる、カメレオン。