忘れた頃にひとつになれる

誰かと真に同じ認識を共有することはできないのかもしれない。


限りなく似ている体験のすり合わせによって、この世の共通認識が成り立っている。


僕が存在している限り、僕の存在する位置に同時刻に誰かが存在することはできない。


僕が見た景色を、ねえきれいだよ、君も見てみてと、となりの人に見てもらったとしても、身体ひとつぶん微妙にずれた景色を見てもらうことになる。


僕がいったん自分のいた位置からどいて、その位置から誰かに同じ景色を見てもらうことはできるが、僕がどいてその誰かが僕が見ていた位置につくまでの間に時間が経ってしまう。


ほとんど変わらない景色を共有できるといって差し支えないが、風に色がついていたとしたらわずかな時間でもけっこうな変化があるかもしれない。


それくらい人間が認識できることというのは大雑把なものでしかない。


それがいいところでもある。


必要以上の精度で認識が出来てしまったら、過度の情報やストレスであっというまに潰れてしまうのではないか。


そんなことを想像する。


ほどよくこの世界を認識して、ほどよくとなりの人とも似かよった共通の認識を持てている安心感と、自分だけの景色を独占する優越感に浸りながら、それぞれが排他と共有のはざまで生きている。


個が形づくられ、それぞれに別のものとして認識することができるが、自分ととなりの人の独立を常に意識しているのなんて、自分だけくらいなものかもしれない。


巨大な水槽に群れを成して泳ぐイワシの大群を見ていると、そんなことを思う。


群れからわずかに軌道のはずれた1匹が捕食者にとらえられたとして、その1匹は失われるわけだけど、イワシの大群は依然としてそこにうごめいたままである。


地球という星が燃え尽きたとき、その存在による影響を受ける範囲にいたものは、お互いに地球がかつてあった位置に残された影響、消え去った影響を受けながら、そのありかを補正しあって、いつしか地球があったなんてことを忘れたかのように、一定の速さで似たような運動を繰り返すようになる。そうなるまでの間は不安定なものだが、長い目で見てごく短い期間の話だといえる。


誰が遺したものなのか、誰がそこにいたのか忘れた頃に、世界はようやくひとつになれる。