美徳に風

いつも理想的だと思うことがある。


そのときそのときの自分が思う理想像がある。


それは、現状の自分と差があるから理想の像でしかないみたいだ。


そのときそのときで、かっこいいと思うことがある。


自分が今を過ごしている環境の中で、ともに過ごしている仲間の中で、美徳とされるようなことがそれぞれある。


とある時期に自分が良しとしていた、選んでいたことが、あとになってそれが必ずしもベストではなかったと気付くことがある。


ベストではないどころか、結構な程度で履き違えたり、決定的に前提を間違えていたり、無知であったりするから、結構はずかしいものである。


ただ、その恥ずかしさの程度だけ、自分が学んだり成長したりした証拠といえるかもしれない。


僕はずっと音楽をやっていて、1020代の頃は特に、その音楽をやりたいようにやるために、可能な限り自分だけの時間を持ちたいと思っていた。


それが、その時の僕にとってのベストだと思っていた。


今思うと、自分だけの時間を多く持つにはまだまだ無知すぎたし、未熟であったとも思う。


その時の僕にはなかったさまざまな変化が、僕が現在身を置く環境にはたくさんある。


自分だけで過ごせる時間は劇的に減った。


ただ、その時間が多ければ多いほどいいとは限らないことを知った。


仕事。本、歴史、資料。街。友達。家族。


そして今も昔も変わらない、僕の取り組む音楽。


あらゆるものが僕の美徳に風を吹かせる。


清らかな、やさしい、はげしい、水を流し込む。


あらゆる風、あらゆる水の流れにのってやってきたものから僕はエネルギーをいただき、必要なだけとって、同時に必要のなくなったもの、身体からはがれたもの、胸から頭からお尻からこぼれ落ちたものを見送って、下流へと、風下へと運ばれて、引っかかったり拾われたり、沈んだり遠ざかったり、見えなくなったり。


足元の土も。


路面の石ころも。


海の向こうの遠い国で物言わずに歴史を語る、孤島に立つ石造りの神殿も。


みんなみんな、流れて、吹かれて。


循環するさまを、美しいと思う。