どんな職業につくのか。
それがゴールかのように勘違いされやすい。
労働や私生活に対する具体的なイメージ(経験)の少ない10代、学生などは特にそうだ。
結婚なんかもそうである。
どんな人と出会い、恋愛や付き合いを経て結婚に至るかがすべてかのように思い込みがちだ。
そこからがすべての始まりであるのに。
みたいな話をするのはもう結婚式を開いたり呼ばれて参加したりする実カウント数を超えて聞き飽きた仲人さんや親族・友人のお祝いの言葉みたいであるがそれでもなお臆することなく言える事実に近いことだと思う。
何かの仕事についたら、もうその職業の者以上の何者にもなれない、
誰かと結婚したらもうその夫・妻以上の何者にもなれない、
そんな風に思いがちなのかもしれない。
確かにあまりにも頻繁に職やパートナーを変えたりすることは、決断力や判断力、忍耐力や協調性、信頼性などの面でその人自身を疑われることにもなりかねない。
結婚は日本の制度のこともあるが、身体はひとつしかない。たくさんの職業をかけもちしたとしても、多くの人とパートナー関係を結んでも、24時間という持ち分は増減しない。
その人のやりくりの問題である。
時間が一度にひとつのことにしか使えないかのようにも思いがちである。
確かにそういえる側面もあるが、実際にはそんなに平坦なものではない。
結婚や就職というものが、ゴールとして1枚の絵に収まるような性質のものではない、という、ここでの僕の思うことにどこか近いものを感じる。
その立体感と閉塞感の両端の幅。
時間は自分1人のものとしての側面があると同時に、自分以外のすべての時計も同時に動いている。24時間を自分がどう過ごしたか、その日々の繰り返しをたった一本の道筋で語れば、人生は星と星を結んで平面に表した星座のようでもある。
実際にはひとつひとつの星には気の遠くなるような奥行きがあり、生まれたり滅んだりして入れ替わりながら、互いの距離も伸びたり縮んだり、休むことなく変化し続けている。
星座に奥行きをみる、ひとつひとつの星々のディティールに思いを馳せるようなイマジネイションを、何事にも持ちたい。