すり合わせて丸くなる

どこそこの〇〇だとか、第2の〇〇だとか、ポスト〇〇(〇〇には、有名人の名前が入る)なんて言い方について。


音楽をやっていて、影響を受けた元になるものを指摘されるのは、ときにちょっと恥ずかしいことであるようにも思う。


いや、指摘される程度のことは良いのだけれど、ちゃんと自分のものにできていないというか、その元ネタになっているものの真似ごとの域を越えられていないことを、暗に嘲笑されるようなことは、音楽家にとって悔しいことのように思う。


自分なりの道筋で導き出したものが、偶然先人の考えたことや作ったものと同じだったり、似ていたりすることもあって、これもやはりちょっと悔しい。


いずれにしても、自分のものにできているか、その人なりに消化できているかどうか、というポイントがあるようである。


和製プリンスなんて例えられた岡村靖幸さんであるが、僕は彼の作った曲やパフォーマンスに好感が持てる。


すでにいる有名人の名前を使ったキャッチコピーが野暮だとまでは言わないが、正直にどうでもいいことだと思う。


ナニワのモーツアルトなんてのも聞いたことがあるけど、そのキャッチコピーによって、ああ、誰々さんのことね、と本人を挙げられるくらい広まったとしたら、そのキャッチコピーがどこか上手にツボをついていたり、上手く例えているかもしれない部分については無視するべきではないかもしれない。


ただ、キャッチコピーをつけた人の言葉の道具箱の中身、語彙能力の問題ですでに存在する有名人の名前を使うこととなっただけかもしれないし、受け取る側の人、そのキャッチコピーを共有する側の人たちの語彙能力の問題であった可能性も否定できない。


誰もがイメージしづらい言葉で例えられるよりは、サクっと2語程度で、すでにいる有名人の名前を使って例えるのが手っ取り早かった。そんなところだろうか。


そうした名付けを短絡的だなぁと思ってしまう直感と、でもわかりやすいよね、と認められる部分とのすり合わせにも似た補正が、人生におけるあらゆる局面で行われる日頃である。