心の中の鉛筆

なんにもない、なんてことはない。


家から100メートル圏内にだっていろいろある。


道に生えているあらゆる葉っぱを触り、ちぎって匂いを嗅いで歩く。


立ち止まって住宅の塀の造形や材質を手で確かめたり、しみのつきかたを見つめる。


砂地を撫でて、手をうずめる。


13ヶ月の息子と一緒に近所を散歩しながらそんなことをしていると、見るもの、触るもの、感じることのできる対象が無尽にあることがわかる。


当然、僕ひとりで散歩していたら、注意もくれずに通り過ぎるようなものばかりである。


ひとたびそこにあるものを認識し、知り、その存在が当たり前で、ありふれたものになると、人間はその存在を意識しなくなる。


大人になればなるほど、なんにもないなあと思う傾向が強まるとしたら、その理由はそういうことだと思う。


身のまわりがありふれたものでいっぱいになり、ここにはもうなにもないと思うほどに、より外に新たなものを求めるようになるだろう。


そうやって行動範囲が広がっていき、物質的な世界の地図と、概念的な認識の地図がつくられていく。



地図はつくられたその瞬間から古くなる。


変化がない限りはずっとそのままで差し支えないが、変化があったかどうかは自分で再び訪れてみないとわからない。


変化がないという更新がつくことと、変化の有無さえわからず古いままなのとでは、少し違う。


その地図を頼りにしたいのならば、最近の認識によるものである方が信用できる。


どれくらい先までこの状況は変わらないだろうな、という予想をすることはできる。


その精度によって、なるべく更新をさぼり、別のことにエネルギーを割くといったやりくりはある程度可能かと思う。


大人になるほど、そんな予想に頼る。


遠い昔一度歩いたっきり新たな書き込みのない部分でいっぱいの、薄っぺらでかさばった地図を引きずりながら、それでもさらに地図を広げようとさまよう。



僕は息子と近所を散歩するときは、心の中に一本の鉛筆を持ち歩くようにしている。


自分の地図を、新たな書き込みで真っ黒にするためのものである。