なんにもない、なんてことはない。
家から100メートル圏内にだっていろいろある。
道に生えているあらゆる葉っぱを触り、ちぎって匂いを嗅いで歩く。
立ち止まって住宅の塀の造形や材質を手で確かめたり、しみのつきかたを見つめる。
砂地を撫でて、手をうずめる。
1歳3ヶ月の息子と一緒に近所を散歩しながらそんなことをしていると、見るもの、触るもの、感じることのできる対象が無尽にあることがわかる。
当然、僕ひとりで散歩していたら、注意もくれずに通り過ぎるようなものばかりである。
ひとたびそこにあるものを認識し、知り、その存在が当たり前で、ありふれたものになると、人間はその存在を意識しなくなる。
大人になればなるほど、なんにもないなあと思う傾向が強まるとしたら、その理由はそういうことだと思う。
身のまわりがありふれたものでいっぱいになり、ここにはもうなにもないと思うほどに、より外に新たなものを求めるようになるだろう。
そうやって行動範囲が広がっていき、物質的な世界の地図と、概念的な認識の地図がつくられていく。
地図はつくられたその瞬間から古くなる。
変化がない限りはずっとそのままで差し支えないが、変化があったかどうかは自分で再び訪れてみないとわからない。
変化がないという更新がつくことと、変化の有無さえわからず古いままなのとでは、少し違う。
その地図を頼りにしたいのならば、最近の認識によるものである方が信用できる。
どれくらい先までこの状況は変わらないだろうな、という予想をすることはできる。
その精度によって、なるべく更新をさぼり、別のことにエネルギーを割くといったやりくりはある程度可能かと思う。
大人になるほど、そんな予想に頼る。
遠い昔一度歩いたっきり新たな書き込みのない部分でいっぱいの、薄っぺらでかさばった地図を引きずりながら、それでもさらに地図を広げようとさまよう。
僕は息子と近所を散歩するときは、心の中に一本の鉛筆を持ち歩くようにしている。
自分の地図を、新たな書き込みで真っ黒にするためのものである。