地平線に見た夢

セミの土の中でのくらしの長さ(幼虫時代)に対して、地上でのくらし(成虫時代)は短い。


死ぬ直前の一瞬の夢みたいにさえ思える。


うちら地中でさんざんガンバりましたね、おつかれさんでした、とでも言って盃を交わし合っている、本番を無事終えたあとの打ち上げの席のようでもある。


そんなことを思うのは僕が酒飲みの中でも最も下衆な部類だからなのか、あるいは本当は酒飲みじゃないかのどちらかかもしれない。


地中ではモグラに食べられる危険と隣り合わせに生きたかと思えば、地上に出れば翼を持った鳥がわんさかいる。


どれくらいの数の幼虫がどれくらいの数、成虫になれるものなのだろう。


マンボウなんかはその比率が特に極端だと聞く。気の遠くなる数の幼魚が産み出され、僕らのイメージするような悠然と泳ぐ大きな姿のマンボウになれるのはごくごくわずかだという。


人間は一生のうち1人も産まない人もいれば、多ければ5人、10人と産める人もまれにいる。


1度の妊娠ごとに命の危険と隣り合わせながら、1度に出産する赤子の人数は基本的には1人である(双子、3つ子というケースもある)。


産んだあとも自分で身の周りのことが出来るようになるまで、それなりの期間保護し続けなければ子どもは生きていけない。経済的な自立までの期間も含めれば20年前後にも及ぶ(あるいはもっと)。


セミやマンボウに比べれば、人間は産まれてくる子どもが成熟した個体になれる確率はかなり高い。


これだけ繁栄するわけである。自然界に最も影響を及ぼす存在となった。


個体数とか、その質量的には地球の中でもっと大きな割合を占める生物が存在するかと思う。


細菌だろうか、昆虫か魚か何かはわからない。


数の多さ、寿命の長さといったものは、そのものの存在感とはあまり関係がない。


地球が1個の生き物だとして、目立っているなあとか、地味だなあ、とか、あ、いたの?とか思うだろうか。宇宙のなかでは、わりと環境の変化に富んだ珍しい存在なのかもしれない。


地球に住んでいる僕らは、あまり年がら年中あしもとの地球を意識しているわけではないとも思う。かなり高い山に登ったり、たまに飛行機に乗って高いところに上がったときに、カーブした地平線を見てやっと「あぁ、地球があるな」なんて思ったりもする。




セミのひと夏が、終わろうとしている。