発明家の中心線

終わりを意識したときに、ものごとは始まる。


人生の終わりをひとまず「死」だとすれば、死に方を意識したときに初めて、人生がはじまるのかもしれない。


終わらない映画はない。必ず2時間やそこらでひとむすびとなる。前後編に分かれていたりシリーズになっていたりすることもあるけど、はじまっているということは終わりも意識されているということだ。


着地点を決めずに、いつ着地するつもりかも決めない出発もある。それらもやはり「決めない」とか「風まかせ」という終わり方が意識されているのである。


人間はいつどんな風に死ぬか、あまり自分で厳密に決められるわけではない。そのせいか、「風まかせ」という終わり方を選択することによってつくられたものや、生き方そのものなんかに僕はときに心惹かれることもある。


もちろん、どんな状況でどんな死の瞬間を迎えるかといった厳密なことはわからない場合が多い、というだけであって、何歳くらいまでにどんなことをやっておくかとか、生き方の方針みたいなものは、立てることができるしある程度その通りに実行して生きることができる。


どこまで生きられるかわからないけどやってみる、というところが生きるおもしろみでもあるし、はたから見ていても気持ちがよかったり感動させられるポイントであったりもする。



自殺というのは問題だ。


どこまで生きられるかわからないけど生きてみた、その結末が自殺なのだとしたら、残された人は考えさせられる。亡くなった人はもう考えることが出来ないから、どうしてもそうなる。できれば亡くなった本人と一緒に考えて、死を先延ばしに出来たならと願うばかりだ。死を先延ばしにすることが、すなわち生きることだ。


どんな風に、何をして死を先延ばしにするかが「生き方」である。


生き方を決めかねて、迷っているそのあいだにも死は先延ばしにされる。


そうして先延ばしにされた末に、ついに生き方に迷ったままこの世を去る瞬間を迎えることもあるかもしれない。


そういう「風まかせ」もある。


本人は迷ったまま終わりを迎えたと思うかもしれないけれど、一歩ひいて見れば、迷い続けた生き方が浮き彫りにするものは、「風の性質」だったりする。


有名な発明家のオジサンが成功について語ったことは、「たくさんの失敗するやり方を知っただけ」みたいなことだと聞く(あえて粗暴な解釈)。


風に吹かれて迷って生きる。


そこにすでに道はある。


違いは、一本の線を引くか引かないか。


それだけである。