辞職と坊主のファッションリーダー

僕は中学生のとき、野球部だった。


セカンドを守っていたけれど、万年補欠だった。打撃もパッとしなかった。


野球というスポーツは、あんな細い棒であんな小さな玉を狙って打つなんて、たいした芸当だと今でも思っている。


その頃バッテリーを務めていたのは同級生のN君とO君だった。


2人とも髪が長めで、帽子を被ることで長い髪を押さえつけていた。


不真面目でもなかったけれど、決して厳しいとまではいえない部活だった。


僕はこの頃の野球部の様子を語るとき、その様子を象徴して「バッテリーがロン毛だった」と言い表して何度も人に話したことがある。


ある日、N君とO君がロン毛を削ぎ落とし、丸坊主になって学校にやって来た日があった。


なにかをやらかして、その反省の表れとして坊主にしたらしい。カッコつけるために伸ばしていた髪を切ったら、逆に野球部として妙にカッコついてしまった結果となった。バッテリーが丸坊主だ。2年生の後半か3年生の前半くらい、自分たちの代が主力となる時期の出来事だった。彼らが具体的に何をやらかしたのかは、覚えていない。知っていたかもしれないが忘れてしまった。


反省しているかどうかという点を、丸坊主にして表す、というのはどういう理屈なのだろう。


現在を中学生として生きている年齢の人たちに、この感覚は理解されうるのだろうか。


現在31歳の僕たちの世代には、反省=丸坊主に象徴されるような、カッコ(オトシマエ)つけることによって起きてしまったことの回収を図る、みたいな習わしがまだ確かにあった。


起きてしまったことに対する反省の有無と、その人が丸坊主にするかどうかは何ら関係がないのに。


したくない髪型にする、という精神的苦痛によって、あやまちを忘れないようにするということだろうか。


逆からとらえると、丸坊主にでもしない限り、私は自分のあやまちを忘れてしまいます、という宣言をしているようなものである。


見慣れてしまえば、すぐさまあやまちとの関連を忘れて、切り離された別々の事象として認識するだろう。このことも、丸坊主が直接あやまちと関係がないことを裏付けるであろうことを想像する。


こうした「オトシマエ」によって何かをチャラにする、といったならわしが、日本人の、少なくともとある世代以上の人間にはあるようである。


政策や事業がうまくいかなかったときや、何か事故や過失があったときの、政治家や企業幹部、役員なんかの辞職現象にも通ずるものがある。


理屈や論理によらない、大衆の感情の波みたいなものが一挙に押し寄せることがあって、退避を余儀なくされる。そんな光景にも思える。


一時的な高波が押し寄せる場所には、未来永劫つくことができないわけではない。なにごともないときに使えるものを使わないで放っておくのは、病気でもないのに安静を強いられているようなものである。


肝心なのは高波が来たときの対策を考えて、いつでもできるようにしておくことだ。


波が来た瞬間にも、通り去った後にも、うろたえずに適切な対処をすること。そのための準備ができるのは、今しかない。


丸坊主も辞職も、要はファッションなのである。


どうせファッションならば、カッコいいものを選びたい。


この気持ちも、僕が日本人のとある世代以上だからだろうか。