勝ち負けのあることは、本気でやらないと面白くない。
本気になればなるほど、勝ちに近づくことを喜ぶし、負けにつながることを忌み嫌う。
スポーツなどの観戦において、相手となるチームのミスを喜んだりするのも、よっぽど真剣に自軍のチームをひいきにしているんだろうなと思う。
観戦している方は一挙手一投足にいちいち一喜一憂するが、プレイしている側はそんなことに感情を動かしている場合ではないだろう。ただただ、勝ちに向かって常に最善の判断と実行を試みることの繰り返しが、張り詰めた緊張の中で絶え間なくおこなわれている。
真面目にやるほど面白いのは、勝負ごとに限らない。
テキトーに生きては人生もつまらない。
何を「勝ち」とするかの価値観は様々であるが、良しとするものに向かって一心不乱に突き進むときほど、ひとつひとつの出来事に心を割かれて、感情に流されるようなこともなくなるだろう。
人生のプレイヤーは自分である。
ただ見ているだけのお客さんでは、起きたことに喜んだり落ち込んだりするだけだ。
もちろん、お客さんとしてハラハラと、感情を動かされながら見守る視点も必要である。
一心にプレイする選手としての自分と、分け隔てて同居させることが、より試合を正確に把握することになる。
なんだったら試合をマッチメイクする主催の立場、スポンサーの立場、会場を管理提供する立場など、離れて見るほどにどんどん同居させるべき住人は増えていく。
どんなに増えても自分によってひとつに統合されているから、協議も連携も自在にできる。
上役の決済を求める紙の束が事務室に溢れることも、堂々巡りの終わらない会議に拘束されることもない。
安心して自分の中の住人を増やしていいだろう。
個性豊かな住人たちによる、演出妙なるご近所ドラマが見られるかもしれない。
脚本を書く目線で。
監督する目線で。
役者が揃うことで動き出すこともあれば、
動き出すために必要な役者を揃えることも同じである。
ひとりはみんなになれるし、みんなはひとりになれる。
僕とは何かと問うたとき、その境目を考える。
選手がフィールドを駆け巡り、あちらこちらへ、球が転がる。