幸福の魚



元気すぎると、つかまらない。


これはいろんなことにいえるかもしれません。


何かを一緒に成し遂げるための人材を探しているときなんか、すでに元気に活躍しすぎてつかまらなそうな人は、つい敬遠してしまいます。


能力を培っていて、それを発揮する場所を多少なりとも探していそうな人と巡り合えたときは、しめしめと思わずにいられません。



最近完結を迎えた、東村アキコさんの漫画「東京タラレバ娘」を夢中で買い集めて読みました。


30代の独身女性である主人公の、異性や同性との関わりが絶妙に描かれた作品でした。


異性との関係や自分たちの境遇を「〇〇だったら」「〇〇してれば」といった言葉で嘆く主人公たち。


彼女たちに30歳を独身で迎えさせたのは、ある種の強さ、転じて虚勢でもあるかもしれません。


弱い心や甘えが、それにつけこませるような関係を築いてしまいます。


うまくいきかけたかと思えばまたグラリと揺らぎ、押したり引いたりのテンポ感が刺激的で、ときに心地の良いものでした。


ときおり挿入される主人公の「悟り」のような独白が、ただの群像劇ではなく、1人の人間のドラマとして、物語にピシリとした引き締まりを与えているようにも思いました。



  僕は10代の頃を中心に、よくルアー釣りを楽しんでいました。


ルアー釣りは、弱った魚を上手に演じて、偽物の餌(疑似餌)に食いつかせる釣りです。


元気すぎても、死んでても、つかまえてもらえない。


そこに魚がいそうな確信があるようなときほど、「弱った魚の演技」が丁寧にやれるのですが、どこに魚がいるのやら、あてずっぽうなムードに支配されてくると、ついついその演技もなあなあになってしまいます。


そんな油断しているときにもアタリがあることがあって、一気に散漫になった意識が張り詰めた糸のもとに集約されます。


自分のどんなおこないが、いつ人に見られているかもわからない。


釣りにおけるシーンから、日頃の自分のおこないをかえりみてしまうのでした。


散漫になっているときほど、日々のたゆまぬ研鑽がものをいうのかもしれません。


ピアノを弾く人が、緊張で頭が真っ白になっても演奏はちゃんと続いている。そんな状況があるようです。


スポーツ選手にも見られるようなことでしょう。夢中であまり覚えていないけれど、気付いたら試合が運ばれているなんてこともあるようです。


散漫というのはあまり的確ではないかもしれません。無心というやつでしょうか。


自分が意識を支配しているという思い上がりをふっと抜け、日々たんたんとこなしてきた素の自分があらわになる瞬間。


幸運やチャンスというものは、そうした瞬間をきちんと見守っていて、食い付いた魚のように、ひょいと現れるものなのかもしれません。