最近、ビートルズのレコードを1枚、中古で買ってきて聴いた。「ラバーソウル」という作品だ。
僕がビートルズの音楽に初めて触れたのは、「1(ONE)」という、日本の東芝EMIかなんかが後からまとめたベストアルバムだった。
テレビで流れて1度は耳にしているような曲だけで構成された、赤いジャケットのアルバムだった。
中学生の同級生だったショーシ君が、親父さんの仕事(マスコミ関係)の都合で手に入ったサンプル盤を分けてくれたのだった。自分で買ったのではない。
「ラバーソウル」はその後、高校生になってバンドを始めたりした頃にツタヤで借りてMDに録って聴きもした。
ビートルズで僕が好きな曲は、その後大学生になってから聴いた「リボルバー」の「アンド・ユア・バード・キャン・シング」である。イントロから始まるギターリフがカッコよくて、跳躍する歌のメロディとそれに重なるコーラスが気に入ったのだった。それまでビートルズはなんとなく資料的にしか触れてこなかったのだけれど、この曲に出会って初めて、僕はなんとなく多くのミュージャンやリスナーが何かにつけて呪文のように「ビートルズ」をささやく理由が、自分の実感として理解できたように思った。そのきっかけとなる曲がなんで「アンド・ユア・バード・キャン・シング」なのか。僕はビートルズに詳しいわけではないので、たくさんある作品の中でのこの曲の立ち位置みたいなものはよくわからない。先ほど述べたリフとメロディとハーモニーが良かったから。それしかない。他にもリフがカッコよく、メロディが跳躍し、コーラスが乗っかるという条件を満たす楽曲はあるかもしれないのに、どんな出会いによって何が引き起こされるかはつくづくわからない。
最近、大人になって初めてレコードで「ラバーソウル」を聴いたとき、僕はふたたびミュージャンやリスナーが呪文のように「ビートルズ」を復唱する理由を実感した。
率直に思った。
これはレコードで聴かないとダメである。
高校生のときにCDとMDで聴いたときは、自分の中で「資料」の範疇を出なかったことにも納得した。
圧倒的にかわいいのである。
音が、だ。
紙のばかでかいジャケットから黒い円形の物体を引きずり出し、プレーヤーに安置して針を落とすその作業が、だ。
出てくる音はどこか渾然一体となっている。
プレーヤー本体に付属するオモチャみたいなスピーカーなので、低音なんかぜんぜん響かない。
音のセパレートうんぬん、どうでもいいよ!
そこにはきっと、ビートルズが生きて活動していたリアルタイムで熱狂していた人たちが感じていた音体験に近いものがあった。少なくとも僕はそう信じている。
こりゃあ、熱狂するわな。
率直に思った。
体感した。
理解して、納得した。
ビートルズに触れることから、新しいモノや人との出会いを求める動機は、根本的には個人の利益に根ざしている、ということにつなげようと思ってこの文章を書き始めた。
ところがどうだろう、熱心なビートルズファンの風上にも置けない平々凡々リスナーの僕が、ビートルズにまつわる体験を語り出すとなんだかんだこの程度のボリュームになってしまうことは、ビートルズが長く親しまれる理由をそのまんま象徴しているように思える。
安価なアンプとスピーカーが、かえってたくさんの人が熱狂したリアルタイムの空気を連れてきた結果となった。
どんなアンプにも乗っかり、どんなスピーカーにも映えるであろうビートルズであるが、この矮小な僕の家のプレーヤーがもたらした体験は、高校のときにイヤホンでMDやCDを聴いたときのものとはまるで違う。
デジタルは作品の息を長くすることを手伝うけれど、いつだって新鮮な体験はアナログそのものだ。
資料になるくらいなら、いっそ飼料になって食べられた方がいい。
あとかたもなく、消えてなくなるけれど。
消えてなくなることができるのは、実在したものだけだ。