地球儀にピン

むかし、うちに地球儀があった。


学校の授業か何かで自作したものだった。


自分で紙を球に貼り付けた。


わずかな「ズレ」や「浮き」のある、地球としてはなかなかにけしからん、お粗末なものだった。


つけすぎた糊ででところどころふやけたり、これが本物の地球だったらと思うとぞっとする。


小学生くらいのときに作って、しばらく実家のどこかにあって、いつからか見なくなった。今もどこかにしまってあるのだろうか。できの悪いプラスティックと紙の「地球」は捨てられてしまったかもしれない。本物の地球よりだいぶ早い最期だったといえる。


地球の環境の危機が叫ばれたり、論じられたりすることがある。


エアコンの温度は控えめに、とか、ごみは分別して、資源となるものはリサイクル。そもそも「ごみ」なんてものはなく、すべて「資源」である。そんな考えも聞く。


あたり前のように言われることを常識のようにとらえて、疑いもなく従う。


エアコンの設定温度も、ごみの分別出しも、大半の人が自分の頭で考えて決断し、おこなっていることではない。


リサイクルはするほどにエネルギーをムダにする、分別、回収をして運搬したり加熱したりして、なんとか再び使える素材に戻せても、費やしたエネルギー以上に資源が得られることはない、と。大量のアルミニウムなどを除けば、費やすエネルギーの方が圧倒的に多い、と、そんなことを論じる学者さんの本を読んだことがある。


言われたことをただやって、それで地球のためになにかしているといえるだろうか。そもそも環境のことなんか気にもとめない人、気にとめてる余裕もない人もいるかもしれない。


個人でできることはなんですか?と、ついつい「専門家」に訊きたくなる個人であるが、まずは個人で考えて実行すべきだろう。考えることなしに答えを聞きたがる人は多い。そうした人たちによって、マジョリティが形成された社会が今の日本かもしれない。ついついそんなことを嘆いてみたくなる。


路上に吸い殻を平然と落とし、靴底で踏みつける。そんな光景を目にすることはたやすい。そのひとかけらの吸い殻が、ただちに誰かに深刻な影響を与えるなんてことはないかもしれない。人間本位でみればなおさらだ。小さな生き物の命を奪うかもしれないが、だからなんだと言われればそれ以上も以下もない。


ただ、直感的に美しいとか醜いとか思わないのかな、と疑念がわく。平然としているその喫煙者の様子から、気にもとめていないことはたやすく想像できる。その根本にあるものは、「考えなし」なのだろう。それについて、考えを持っていない。


過去にさかのぼれば、誰しも何かについて考えたことがあるはずだ。考えは、持ち続けないと埋もれてしまう。モノには、流動的な人間の頭の中を具現化してとどめておいてくれるという効能がある。


記憶の中のお粗末な地球儀を見つめて、思考が巡る。目の前に、その実物はないけれど。