叩くものがなければ、叩けない。
トンカチを振ろうにも、釘もなければ板もないようでは、ただ手に握ったそれを見つめるばかりである。
とにかくなにか叩けるものを、と、あたりを見回そうにも、のこぎりを引いたあとのおがくずだったり、カンナがけして出た、食えない削り節みたいなもので散らかった工場である。
これを叩いてもねぇ…
そう、叩けるものはそれだけですでに可能性を秘めている。
叩けるものをぽんと出すには、日頃から工場の外をほっつき歩き、気をひくものはなんでも拾ってポケットに入れておく必要がある。
ポケットにも限りがあるだろうから、外の世界のどこに、なにがあるかを知っておくだけでもいい。
叩けそうなものをあのへんから取ってこられそうだ、という見当がつく。
この見当がつく、とか、ポケットから叩けるものをぽんと出すことが、ひらめきなのかもしれない。
その都度に奇跡を感じ、さもなにもないところに救い主が降り立ったみたいに思うかもしれないけれど、着陸するヘリポートを用意したのは紛れもなくその人自身である。
導き入れる体制を作っておくことで、おじさんの群れにも美少女がひょいと現れる。考えにくいかもしれないが、どこに落ちるかわからない雷だって、避雷針めがけて落ちることもある。
落雷の条件が揃えば、それが実際に起こるのは自然なことである。
ひらめきを起こしたければ、その条件となるものをひとつずつ揃えるしかない。
その条件がなんなのかというのが、いちいちそのときによって事情がことなるから、やっかいだ。
努力をおこたるための努力というものだけは、どうもこの世に存在しないようである。
いつか楽になれるかもしれないというまぼろしを見て、人は働き続ける。
いや、ほんとうに最期の最期だけは、楽になれるのかも。
死に向かう一直線の道を、より道してごまかさずにつき進むこと。
それが生きるということなのかもしれない。
一人一人の人生が、閃光そのもの。