Self Engineering

その世界に名を馳せるスゴイ人でも、「過敏」になるらしい。

不調だった時期を振り返ると、「過敏」だったと。そういうことらしい。

ものごとに「敏感」になることは、なにかに取り組んだり、新しい境地をひらくために必要なことだとも思える。

そう、振り返ると「過敏」だったかもしれないけど、そこを抜け出した先がある。

より良くなりたい、上達したり、向上したいという思いからの努力が、「過敏」を招くのだろう。

自分の様子。周りの様子。いまどんな状態か。どこまで来ているのか。何が達成されていなくて、何が必要か。

そうした事象をキャッチするセンサーの感度を上げようとする、焦りの気持ちだったりするんだろうか、スゴイ人たちが振り返る「過敏」というやつは。

長期的にみて、センサーの感度を向上させる努力は有益だし、必須だと思うけれど、なにか大事な局面が迫っているようなときに自分の感度のスペックを嘆き、不安に思うことは賢明ではないかもしれない。

もっと!もっと!と広範囲にアンテナを伸ばそうとするよりも、本番が間近に迫って来たときに必要なこととは、刃物を研ぎ、肉を削ぐような、身を軽くする作業なのかなと想像する。

ここで先ほどの思いを改める。スゴイ人たちの感度というのはすでに相当なものだろう。「過敏」になっていたという言葉に込められた実感は、研ぎ澄ます作業に入るべき時期なのに、いろんな入力をキャッチして反応してしまう自分のことを言い表しているのかもしれない。

スゴイ人たちとは全然違う境遇だけれど、大事な局面を迎えることは誰にだってある。

アンテナを磨き、広げる長期的な努力と、いざ試合にのぞむときに連れていくものを吟味する、取捨選択と。

自分の感度にツマミをつけて、目で見て客観的にコントロールできるようなエンジニアリングを、自分で兼業できたらいい。