理性と本能のカクテルグラス

赤子やペットは、他者に依存して生きている。

世話をしてくれる人がいなかったら、生存に差し支える。

世話をする人は、自分がいなければ…自分がしてやらねば…と、一方的に面倒を見ることになる。

生きるために必要だから、泣きわめくとか愛嬌をふりまくとかして、なんとかして食事を与えてもらったり身の回りの世話をしてもらう。

世話をする人は、される人に仕事ややりがい、生きがいを与えてもらっているともいえる。

他者を支えることで、自分の存在価値が感じられたり、高まったりする。

誰かの世話焼きとは、世話を焼く人のためのおこないなのかもしれない。

ネコは死ぬところを見せないと聞く。

可能な場合に限られるだろうけど、ちょっと遠くへ行ったり、飼い主の目の届きにくいところで亡くなったりする、とか。

もう自分は長くないと悟ったら、これ以上世話を焼かれないようにするんだろうか。

「してあげた」のに対象が亡くなってしまったら、世話をした人は悲しむかもしれない。自分のおこないは無価値だったと思うかもしれない。

世話をしてもらう側にも、生きるために必要以上の「余計な世話」はかけない、という無意識な自制がありそうである。その方が、本当に必要とする世話の質が高まるからだ。

自分が生きるために必要以上のものを持て余す人は、他者に注ぐことでバランスをとっている。持て余したままでは、重荷になって身動きが取りづらい。

この「与える」と「受ける」の関係は、自己完結する場合もある。ひたすらに、自分のためになにかして、自分がその恩恵を受けるのである。身近に「与える対象」が見当たらない場合、自然とそうなるケースも多い。

本当は自分で生きていけるのに、意図的に人に与えさせるという場合もある。与える人に生きがいをもたらすためだとしたら、それはもはや「与える側」といえる。

もう生きていくつもりがないとか、生きていきたくなんてないと思いながらも、「与えてくれる人」のために生き続けようとするなんてこともあるかもしれない。

自分で生きるのをやめる、それを実行するといったことは、本能とかけ離れたおこないに思える。脳みそは、中心部ほど原始的で、外側にいくほど進化の過程で発達した部分だと聞く。生きることをやめるなんてことを考えるのは、頭のどのへんなのだろう。

理性と本能がきれいに棲み分けされているような、そんな単純なものでもないように思う。

頭の中にも、無秩序の宇宙が広がっている。