舶来の君

日本人の気質が、良い方に作用する場合もあれば、裏目に出る場合もある。

ルールを守って協調関係を築いたりするのは得意かもしれない。

何かの順番待ちをするときに、きれいに列を作って並んだりする様は、海外からやってきた人には驚かれるかもしれない。列に横入りした人がいて、それが中国人だったなんて話を聞いたことがある。

日本人は農耕民族だからだろうか。狭い国土をみんなで共有し、田畑を耕したり作物を育てる作業を地道におこなって、時間を隔てたのちにやっと食料にありつける。朝植えた作物の種を夕方には収獲、というわけにはいかない。働かざる者食うべからず、なんてことわざも生まれるわけである。

休むことに臆病である。自分だけ有給休暇を…なんてことがどうも言い出しにくい。ちゃんとやるべきことをやり、成果を出してさえいれば堂々と行使してよい権利である。

こういう成果を出してくださいね、と任された、前提となる条件がそもそも無茶なのだろうか。やることは尽きない。休んでる場合ではないと自分でも思うし、同僚にも思われてしまう…それが実状か。

その人の能力に合った成果が求められる仕事につけば、そのひずみは最小限になるだろう。

実際は毎日が自転車操業、日々火の車で、犬でも猫でも猿でも雇って、無茶にでも仕事をさせて、使い潰して駄目になったら首を切れば良い…そんな刹那的な人事が現実におこなわれていることと思う。

「働かざる者食うべからず」の美徳が行き過ぎて、暴走してしまったなれの果てがこの国の一部に沈着しているのではないか。

働く側にももちろん仕事に対する誠意が必要である。成果を出さなくても保証された一定の報酬を得ることや、あてがわれた休暇の行使そのものを目的とするような指針で働かれては、その職員を養うことは組織にとっては負担でしかない。

一緒に働いてくれたら、作物を分けるよ。と、そういうことなのだけれど、その作物が育ち、収獲できなかったら成立しない。

日々どれくらいの目に見える働きをすれば、長い期間を経た先に作物にありつけるのか、、ということがわかりにくい場合にほど、日々の怠慢は起こりやすなる。

短期的な、それこそその日1日に対する目標を掲げることの価値は、長期的な成果にありつくためにどれくらいの結果を出し続けなければならないのかをわかりやすくすることにある。

今日できることは、土地を耕して道具を片付けて帰るだけかもしれない。再来週ごろは、熱心な雑草取りに終始するかもしれない。

日々やれることを自分で見つけておこなう先に、人はどこかにたどり着くし、どこにも行かずにその場を守りもする。たどり着きたい場所、守りたいものから逆算して日々のおこないを選ぶこともできる。その行き先は、本当に自分が目指すべき場所なのか。逆算するとして、その計算は正しいか。

足元の草も、見上げた空模様も、いろんなことを教えてくれる。

狭いながらも変化に富むのが、この国の特長でもある。

いろんなものが見られるし、いろんな人もやってくる。

国そのものが、港といえる。