思念のジオラマ

歴史に区切りの線はないけれど、個人を語るうえで大きな変化はいろいろと挙げられる。

転職、結婚、出産、引越、起業、就学…などはわかりやすい例である。

そうした個人の転機となる線が、ほそ〜くほそ〜く歴史の帯上に引かれる。個人の線一本じゃほとんどわからない、髪の毛ほども見えないレベルであるけれど、そうしたたくさんの人の転機が重なって色濃くなってくると、ようやく歴史の動きがグラデーションのようになって表れる。

法が変わるとか、絶対的な秩序がつくられたり、逆に崩れ去ったりすると、一度にたくさんの人の転機につながるので、そういう場合は極端なグラデーションがあらわれて、歴史を区切るはっきりとした線が認められる場合もあると思う。

誕生日や命日は、はじまりやおわりを示すランドマークだ。

これほどわかりやすくて具体的な線もない。

誕生や喪失を知った周囲の人は、瞬間的には衝撃を受けるかもしれないけれど、その事実を認め、受け入れ、反映する一連の影響はやはり「面」であり「立体」である。

そうしたものがボコボコと林立し、入り組んだ世界にぼくらは生きている。

目に見えたり、さわれるから生きているわけじゃない。

「思」えば見えるし、さわれるのだと。

それすなわち、生きている。