まだないバス停

なんとなく似たような道を歩いてきた先輩、というのはいるかもしれない。けれど、部分的なものだ。

自分と似たような生い立ちで育ってきた人もいるかもしれない。けれど、似ているというだけだ。

参考にすることはできる。他人のことを。それだけである。

人のやってきたことを見たり知ったりするのは、だいじなことだ。

そう、他人と自分といわず。他人も自分も「人」なのだ。

「人」のことを知る。それは、自分のことを知ることでもある。

他人は、自分の鏡である。

自分が道をふさいでいたら、他人は通れない。

もし通れたとしたら、疑ったほうがいい。自分は幽霊かもしれない、と。

自分がそこにいたら、猫だって避けて歩くだろう。しっぽを立てて、からだをこすりつけてくるかもしれないけれど。あなが踏んづけているまさにソコは、あなたが足をどけなければだれかが踏むことはできない。

避けて通るだれかを見て、自分を知る。

自分もだれかが踏んでいる土を、ふさいでいる道をあきらめながら、迂回しながらどこかへと歩いていく。

そんなあなたの姿を見て、自分が踏んでいる土のこと、ふさいでいる道のこと、自分がそこに存在していることを知る、だれかがいる。


どこへ歩いていくのか。

自由に決めていい。

だれかの背中を追って歩くこともあるかと思う。

だれかが踏んづけて、通り去った土を踏み、道を通ることもあるだろう。

(そんなことばかりかもしれない)

意図的に他者を導いたり、先導して歩くような人がいたら、きっとあなたを利用しようとしている。


利用されることは悪くない。あなたもだれかを利用している。

利用したり、されたりしている自覚を持とう。

そして、自分で自分の行き先を決めるといい。

歩きながら決めてもいいし、だれかに聞いた美しい土地をめざしてもいい。

聞いたこともない場所を想像して、求めるといい。

今は存在しない場所かもしれない。


自分でつくるといい。

行き先は、自分でつくる。

これがいい。


ぼくは、そう思う。