冷浴トリップin銭湯

自分の幸せに感謝できる瞬間ってどんなものだろうか。僕には思い当たるものがぱっと浮かばない。


他者の幸せのきっかけになれたときだろうか。子どもの無垢な笑顔を見たときとか。自分のしたことで笑顔になった誰かをみたときとか。その瞬間はふわっとして、ほっとして、和んだ気持ちになるけれど、まじまじとその幸せに感謝するような、丁寧に対峙する時間を、僕は持ってこなかったのではないかと思う。


身体的な恍惚感、充足感を与えてくれるものに、ひとり酒があるかもしれない。身のまわりのことや、自分の内面的なことに向き合える時間を持つための手段にもなるかと思う。酒を提供するお店にひとりで行った経験がないわけではないけれど、僕の場合は新しい刺激や出会いを求めて行くことの方が多いかもしれない。


身体的な恍惚、充足、そして自分に向き合う時間を確保できる手段として、僕がよくおこなうのは銭湯通いである。入浴で血のめぐりが良くなるからか、考えごともはかどるし、なにも考えず余計なものを押し流し、すっからかんになることもできる。目的を同じくするはだかんぼの同性が、そこらに浸かったり身体をケアしたりしているので、それだけで僕は「男を嗜んでいる」気分になってくる。


水風呂がある銭湯はプラスアルファのたのしみがある。ひととおり浴槽をめぐって身体があたたまったら、冷浴でシメる。ゆでたての麺類になった気分にいつもなる。浸かっていると、だんだん心拍数が下がっていくのがわかる。親指のつけ根をもう片方の親指で押さえて、脈を感じてみる。間隔がひらいていく拍動に、死を思ったりもする(あくまで擬死、まがいものである)。それから、次第に目がまわりだす。視線を保とうとする意思にも関わらず、強烈に視野が浮いては沈みを繰り返す。回転するスロットを追うときの目線の動きを、強制的にさせられているようである。身体を座席に固定され、激しく上下左右前後に揺さぶられるジェットコースターの感覚と、種類は違うが自分の意思と身体感覚が離れていく感覚が似ている。


この強烈なぐらぐら感に、僕はいつも麻薬や覚醒剤をイメージする。健康的(なのか?)かつ合法的にこんな快楽を味わえるのならば、違法なクスリなんて要らないじゃないかと思いつつ、僕は麻薬も覚醒剤も打ったことがないので、代替になるものかわからない。ひとまず、クスリから手を引きたい人、クスリに手を出しかけている人がいたとしたら、まずは銭湯で水風呂を試してもらいたい。身を滅ぼすこともなく、都内ならば1回460円(大人)で安心の均一料金である。


幸せへの感謝について考えていたら、水風呂の話になってしまった。このトリップ感を、ぜひ銭湯で味わってもらいたい。

いつも空気に押されている。

見えないから感じにくいけど、みんな空気のなかにいる。

高い山の頂上に、密封された袋入りの菓子を持っていくと、パンパンに膨らむ。そんなことではじめて、自分のまわひを満たしているものの存在を意識したりする。

それも、自分が動いたから気付けたことだ。ずっと一定の標高のところに居続けたら、知らないままだったかもしれない。

自分が動くことで、まわりと自分との関係の変化が生じる。同じ関係を保ち、支え続けるものの存在には鈍感になりがちだ。たとえ実在していたとしても、まるでないものかのように思い込んでしまう。

同じ場所に居続けても、びゅうびゅうと強い風が吹き込んでくる日もあれば、湿気ったり乾いたりもする。そうした変化のなかで、おなじポジショニングを保ち続けるのは、それだけでエネルギーのいることだ。空気は流れて、動き続ける。

もっと軽くなれればなぁ。

まわりの空気が自分より重ければ、なるほど、自分は浮かぶのである。

飛行機のようにすごい速さで動いていると、ちょっとした翼の角度で揚力がはたらいたり、その逆もある。静止していたら、翼の角度で浮いたり沈んだりなんてことはないから、なんだかちょっと不思議にも思える。動いているかどうかで、自分のとる姿勢がまわりとどう関係するか、結果に影響があらわれる。おもしろいなと思った。

動き出したものは、動き続けるのが楽になる。急に止まることの方が、一大事になる。

逆に静止しているものにとって、動き出すのは一大事になる。はじめの一歩を踏み出すとき、そんなときばかり、自分のまわりの空気が重いような…

まわりの空気と自分との、いまの関係がどんなものなのか。それに気付くこと自体が、はじめの一歩といえなくもない。