ともだちに、パンを。

まいにちの些細なことを書くのが、日記である。なにかとても大変なことがあったら、日記に書くといい。書き込んだ瞬間、些細なことになる。必要以上に苦しんだり悲しんだりする必要はない。些細なぶんだけ、ささやかに苦しんだり悲しんだりすればいい。


お気に入りのパン屋さんがある。自分ひとりでもなにかと買って食べるし、買って帰って家族と食べたりする。すぐとなり(のとなり)が公園なので、そこで食べたりもする。広くて(広すぎず)きれいで(それなりにきれいで)緑があって(空もある)、気持ちの良い公園なのだ。近所から(あるいはすこし遠くから)たくさんの人が来て、ひこうきを飛ばしたり(エンジンなどのない軽いもの)犬を散歩させたり、お弁当を食べたり歩いたりお遊戯の練習をしたりしている。そこで食べるお気に入りのパン屋のパンは格別で、あまりの満足感に打ちひしがれて、いつもぼんやりしてしまう。この満足感がなによりで、決して僕自身からはみ出すことがない。このパン屋のパンを食べることが、自分にとって背伸びをしたり見栄をはったりすることのない、ごくごく自然な行為なのだ。だから、ひとりで食べても家族と食べても、僕からも家族からもはみ出さない。

自分のたのしみは自分のものだ。

ささやかで些細で、誰かに押し付けたりするものではない。

だけど、いくら押し付けたり押し付けられたりしても決してはみ出さない、あのパン屋がもたらす幸せみたいなものごとが、この世には確かにある。

そういったものを与えあったりして、日記に書くのもいい。

いつか思い出して、そのときのささやかで些細な幸せを、のちの自分とまた与えあうことになるだろう。

過去の自分とともだちになったようなものだ。

そうか、自分とでもともだちになれるのか。

憶えていたら、日記に書いてみよう。



(それはそうと、あのパン屋のパンを、だれか、ともだちにも)