自分はなにも知らない。
知らないことだらけである。
そのことさえも知らないでいる人もいる。
知っているつもりでいても、実はよく知らないこともある。その逆もあるだろう。
どれくらい知っていたら、知っているとみなすのか、個人差があると思う。
よく、「名前だけは知っています」なんて言う。
文字に起こされた固有名詞や、発音された名前を、見たり聞いたりしたことだけはある、ということを前置きしているのだろう。
ああ、それね、さわったことだけならあるよ、とか、匂いだけなら知ってるよ、は、あまり聞かない(一度もない)。見たことも聞いたこともないけれど、舐めたことだけならある、は、もっと聞かない(未来永劫聞かないかもしれない)。
「知る」ということが、いかに「見る」「聞く」に偏っているかがわかる。これも、「知った」ことに入るだろうか。なるほど、考えることで知れることもある。
それは、もともと自分のなかにあったものだ。素材だけは揃っていた。材料だけが在庫している状態のことを、知ったつもりになっていた、なんて言えるかもしれない。
自分というものが、倉庫に思えてくる。
自分は考えたりするから、自分のなかに倉庫が含まれている、というのが的確か。
考える過程で呼び出されたり、配役されることで、在庫品は初めて「知った」の領域に浮かび上がる。
「知覚の海」みたいなものがあって、在庫はそれぞれさまざまな深さに沈んでいる。ぷかぷかと浮かんでいるものの数は、たかが知れている。どんなに広くても、所詮は「面」でしかない。人間の意識の表層の小ささたるや。
その「面」をなるべく広げたり、沈み込んでいる在庫をなるべく活発に引き揚げて循環させる、そういう努力は意識しておこなうことができる。
意識的におこなうことも、習慣化すると無意識に入りこむ。それを防ぐためにはどうしたらいいかと、また在庫を配役しては考える。
堂々巡りで答えが出ない、どうしたものかとふとあたりを見回せば、陸もあるし空もある。舟に乗った人もいるし、電車や会社に乗り込んで忙しくなにかをしている人もいる。お気に入りのバルコニーやベランダやデッキで、森の営みに耳を澄ませながらたばこを吸う人もいれば、酒に汚れたフロアで爆音で鳴らされるスピーカーの前で踊り狂う人もいる。
僕は防音扉をがさつに閉めて、トドメをさすようにレバーを下げる。
外の空気の新鮮さを知る。最初から外にいたんじゃわからなかった。
「知る」も、代謝するのだろう。
人間の営みそのものである。