印鑑とパンツ〜100円ショップで買えるつながり〜

100円ショップで買える、自分の苗字が左右逆さまに彫られた小さな円柱。これを事務的な内容を書いた無表情な伝票やら書類やらにポコっと押してやる。たいていが白黒のコピー用紙だったり、感圧式の青い筆跡が滑ったあとのペラペラな紙切れだったりして、これにまあるく小さな人名が朱いインクでのると、なんだかとても格好がついたように思えてしまう。毎日パンツをはくくらいあたりまえのように、みんなが繰り返していることである。 

パンツをはかなかったら、局部がスレるとかスースーするとか、ズボンの内側が直接汚れやすいとか、実害がありそうだ。ハンコはどうだろう。なかったら実害があるだろうか? 

まったくなにもなかったら、その人が認めましたよ、ということがわからない。かといって、100円ショップのハンコで本人が認めたかのように偽って別人が押したかどうかなんてことをいちいち鑑定するような労力は割けない。 

手書きのサインならどうだろう。 

本人の筆跡を知っている人が見れば、ある程度判別できるだろう。高い精度で似た筆跡を持っている人は、少なくはなるがほかにいる。絶対に本人のサインだということを証明するには、やはり科学捜査みたいな鑑定なしには難しい。 

こうなるともう、指紋とかになってくるだろう。いちいち親指をインクで汚して、ウェットティッシュなんかで一回ごとに拭くのは嫌だなぁ。押したところで、これもパッと見てその人の指紋だとわかるだろうか。どこかのサル山のサルの指で押しても、判別がつかない人もいるかもしれない。 

書類のやりとりで、なにかしるしを付すことで本人によって認められた内容である、と納得しあうこと自体がおかしいのである。(理解しがたくもあるし、笑える、の可笑しいの意味でもある) 

結局は、かたちばかりなのだ。お飾りみたいなものなのだ。ファッションと同じである。…と言い切るのは乱暴すぎるところもあるが… 

お葬式には、黒い服。
黒い服を着ていくことが、ご遺族への思いやりであるとか、マナーであると考えられている。 

本当に悲しむほどに、自分の服が黒く黒く変化したとしたら、黒い服は悲しみの証明になるだろう。実際は、誰でも着替えるだけで「黒い服を着た人」になれる。 

本質的になにかを証明したりするような効力のないことを重んじるということが、どこか「連帯感」の存在を匂わせる。形骸化した無意味なことをやりあうことで、わたしとあなたはつながっているんですよ、というご近所づきあいをしているみたいに思える。国土の狭い島国だからだろうか。狭い範囲で、仕事を分担して、資源を分け合って生きてきた歴史の、端の端の端っこの先端部分に、僕たちが日々ハンコを押して書類をやりとりするようなことが続いているのかもしれない。 

そして、それも変わりつつある。 

情報が混ざり合い、文化が流れ出し、融けあい。 

フュージョンミュージック。 

混沌と。 

となりが白といえば白。 

まわりが黒なら自分も黒。 

みたいなことはなくなって。(徐々に) 

高精細なフルカラーで個々のドットが置かれていって、天空から見下ろしたらこれはなんの絵だ? 

支配者の顔か。花鳥風月か。幾何学模様か。 

夜の地球に、あかりが浮かぶ。人の密集する都市部を示している。海抜の低い平野部ほど、明るい場所が多いだろう。(…それとハンコと、なんのつながりが?) 

つまりは、そんな程度のものなのである。