難破せん、航海せん。

どんなに意義深い航海でも、難破してしまっては元も子もない。

日々の安全な航海のなかで生み出される、安定して質の高いものこそが、ほんとうのプロの仕事といえるように思う。

命をかけてやるとか、死ぬ気でやるといった表現があるけれど、それをやることによって死ぬリスクをいとわないというよりは、それに尽くすというニュアンスである。なにもしなくても人生は終わる。なにかやるなら、これにかけるというものがある場合、文字通りそれに「尽きる」だろう。

仕事というのは、対価を払ってくれるひとに限定的に(対価の分だけ)尽くすということである。単純に考えれば、他者に尽くすほどにまわってくるのがお金ということになる。

対価のかたちはお金以外の場合もある。知識や経験、自己満足などが得られるのがボランティアだろうか。「奉仕」ということばがあるけれど、他者に尽くすことそのものが、自分への対価のようになっている。誰かを助けたり、支えたり、役に立ったりすることで、自分自身が満たされる。「奉仕」するほどに心が貧しくなるようなボランティアは誰もやらないだろう。そもそもそれは「奉仕」とも「ボランティア」ともいわない。一方的な支配だったり、隷属のようなものに近い。

自分の満足のために自分の手を割くと、表向きにはなにもまわらない。少なくともそう見える。ためしに自分自身に対価として現金を支払ってみたらどうだろう。ただATMからおろして財布に入れただけと変わらない。見た目だけを装うことには何の意味もないことがわかる。「装い」には見た目以外のなにか、飾りとして以上の機能がある。それがファッションや「スタイル」と表されるものの本質かもしれない。「自分」や「だれか」のためになる、なにかをもたらすものが「本来」なのである。「仕事」や「ボランティア」にも、同じことがいえるだろう。