環状線のターミナル

母親が外出しただけで、ぼろぼろと大粒の涙を流す息子。自分も幼児の頃はそうだったんだろうなとまじまじと見つめる。これっぽっちのことでそんなに泣かなくても…と思うけれど、目の前の息子のような幼い自分が、僕の中に今もいる。ただ、いろんなものが覆いかぶさって、表面に出てこなくなっただけなのだろう。

学生の頃はよく寸暇を惜しんで遊び回った。眠ることよりも遊ぶことのほうが楽しかった。よく平気でお日様が昇るまで、夜通し夢中で遊んだものだと思う。最近はお日様より早起きになった。31歳でこの調子だと、そのうち昼夜が逆転してしまうのではないか。ひとめぐりして、学生時代と同じではないか。青春時代は何度でも帰ってくるようだ(?)。

そうやって遊び倒した頃の学生の自分も、表に見えにくくなっただけで、今の自分のなかにいる。遠くなったり、掘り出すのがやっかいになったり、なかには行方不明になってしまったものもあるかもしれない。その成れの果てが、今の自分である。

恥ずかしい、思い出したくもない、馬鹿だった、周りが見えていなかった、いろんなことがあったと思うけれど、若いうちにそうした思いをしておいたほうが、体力や時間的な余裕でカバーできる。社会の目も、若い人にはやさしい。同じおこないをしても、年齢次第では許されないこともある。

経験して、体得しないことには人は学ばない。いずれは思い知らなければならないことは、しかるべき機会にやってくる。若い人の鋭敏な感性は、そうした機会を引き寄せるものなのかもしれない。

そうした機会が訪れる時期は、個人に合わせて柔軟に前後させることができるのが、理想的な社会なのではないか。現実は、社会にはまり込めばはまり込むほどに、「時期」を強いられる…そんなふうに思えてならない。

1年の終わりと、始まり。

一斉に歳が終わって、始まるなんて、不自然じゃないか。

自分で自由に基準を決めれば良いはずだ。

今日が「あけましておめでとう」だって、べつにかまわない。