さらり 〜おもてなしの所作〜

もてなされた人に気を遣わせないのが、本当の「おもてなし」なんですね。

短絡的な見返りを求めてするおこないは、もてなしでもないし、奉仕でもない。

あたりまえのように卒なく、さらりとしてみせる、なんだったら相手に、そのおこないがあったことを感じさせないような自然さが理想である。

なにかをしたとき、ついつい「やったアピール」してしまいがちだ。誰がとは言わないが、僕もきっとそうだろう。ちょっと手間を割いたり、負担に思うようなおこないをしたとき、「何もなかった」かのように流されてしまうのが悔しくて、ついつい近くの人に見せつけようとしたりする。手間だ負担だなんていっていたら生活がまわらない、そのおこないをすることが日常になっている立場にある人から見てみれば、そんな些細なことで「やったアピール」している人は馬鹿げて見えるだろう。極端な話、「あなた自分のおしりも拭けないの?」といった感じかもしれない。(事情があって本当におしりが拭けない人もいると思う)


歌の達人は「話すように歌う」という。

僕は楽器もそうだと思う。演奏が自然な行為になるほど、楽器と同化する。ギターを弾くんじゃなくて、ギターになれ、と、僕は自分によく言い聞かせる。

我ここにあり、といった感じで、「やったアピール」そのものみたいな演奏に遭遇するたび、僕は冷めたような気持ちになる。そして、そうしたプレイで冷めるのではなく、熱狂したり楽しめる人の方が世の中には多い気がする。いっそ音楽の世界じゃなくて、オリンピックみたいに競技としてやってもらった方が潔いようにも思う。(それがコンクールか?)ただ、フィギュアスケートみたいに、美しさを数値化して競うものもあるようだ。僕はその方面に明るくないので、なんともいえない。単純になんでも競技にすればいい、ということとも違う。

さらりとした自然さは、その美しさを競ったりしない。競わないことが美しさに直結しているわけではないが、それに関連して立ち現れる、人間の所作みたいなものがあると思う。

生活に滲み出るその人の生きざまのようなものが、立ったり歩いたり、座って静かにしている様子ひとつにも見てとれる。

1年のはじまりに、僕はどんな姿勢をしているか。嘘つきな鏡にでも見てもらって、初日の出を受けて影を落とし、親戚のあつまりの目に映る1日を思う朝。

今年も何卒、よろしくお願い申し上げます。