その「手」に、お金を払いたい。

 機械化されたスーパーのレジが増えました。しかしながら、相変わらず係員がいて、バーコードをスキャンするところはやってくれたりします。最後のお支払いのところだけが、機械に任されていたりする。これに、ものすごく違和感を覚えます。

 

 売り買いの内容に関わらず、店の人が、自分たちの提供するサービスをお金という形で評価してもらったことに対して、心から「ありがとうございます」と言ってくれる場面は、気持ちが良いものです。そのサービスにお金を払う決断をした・そのサービスを評価したこちらの方が、逆に評価されているような気分にすらなります。お金そのものではなく、お客さんになってくれたことに対して「ありがとう」を言っているのだな、と。そういう店員さんがいる店を、僕は好きになる傾向があります。

 

 レジの支払いの部分だけが機械化されると、その部分が言葉どおり「機械的」に抜け落ちてしまいます。しかも、目の前でバーコードのスキャンをしてくれる人がいるのに、というのが先ほどのケースです。お金を支払っても、お互いにありがたがることがない。(向こうはもう次のお客さんのバーコードを読み取る作業に入っている)

 

 店員さんがお釣りを間違えるリスクは無くなりそうです。

 …それ以外になにかあるでしょうか。

 

 

 間違って多く受け取ったお釣りに気付いて、あとで時間が空いたときに返しに行ったら、ひどく感謝された経験があります。

 その店は、障がいを持った人の自立を支援するパン屋さんで、お会計を担当した人が勘定を間違えたのです。お釣りを受け取った瞬間「安っ」と思いましたが、お店の「自立支援」という性質のおかげでこんなに安いのかと勝手に納得して、あとでパンを食べながら値段シールに書かれた数字をひとつずつ勘定してみると、その店の相場でパン1個分くらい、支払いが少なかったことに気がつきました。ただ、どこでなにをどう間違えたかが解せない額面だったので、その計算の過程をそのままあとでお店の人の前で披露して不足額を支払う意思を伝えたところ、「よく気づきましたね(中略)わざわざありがとうございました」と言われました。

 

 このエピソードは、レジが機械だったら決して生まれなかったものでしょう。こうしたエピソードのために、レジを機械化するな、という話ではありません。ただ、間違いなく僕にとって忘れもしないエピソードとなりました。ただ忘れもしないだけなら、あってもなくても良いようなものですが、僕も店員さんも、それで清々しい気分になれたのです。(少なくとも、僕は)

 

 お金は、生身の身体を持った人間が生きていくための糧をやりとりする便宜をはかるためのものです。その取り引きをおこなう局面こそが、もっとも人間的で、大事なもののようにさえ思えます。

 

 こんな自分自身の経験からも、「機械にもできるけど、人間がやっていい」ことって少なからずあるようです。「人の手」に、僕はお金を払いたい。僕だって、「自分の手」にお金を払ってもらえたら、嬉しいと思う。