31歳の遺言〜「問い直し」の密林から〜

 新人として職場に配置されると、先輩から仕事を引き継がれる。仕事とは、自分次第で発展させたり畳んだりできるのが本来だ。けれど、どうも惰性でただ動き続けてきたような印象をうけるものが、なかにはあったりする。

 仕事が起こされたときには、起こされたなりの背景、時勢、人的・物的な状況・資源があったりする。だが、それらは日々うつろう。とある事業を続けていくことは、常に「新しい事業」だったとしてもこれをやるべきか、という「問い直し」のもとにおこなわれるべきだ。ただ先輩から引き継がれたから、というのは続ける理由にはならない。いままでのコピーを排出し続けるような仕事はつまらなくて、できればコンピューターとプリンターにお任せしたい。(コンピューターとプリンターにだって、そんな暇はない)

 人生の最後の方に訪れるかもしれない選択「延命措置をするかどうか」。本人や他者を、これからも、これ以上に幸せにする可能性があるのなら、人の手を借りて、機械の力を借りて、その可能性にかける価値もあるかもしれない。それもやはり「問い直し」のもとにおこなわれるべきだ。なにもなかったところに、この「延命装置につながれたその人」を、手間をかけて、お金をかけて、導入したいと思えるか?僕がもし患者本人だったら、その「問い直し」のもとに、身のまわりの人に自由に決めてもらって良い。(身のまわりに誰かがいれば、であるが)

 31歳という年齢の僕が、そうした状況を自分のこととして身近に感じたうえでそんなことを言えるのかと、人生の大先輩に問われでもしたら、ちょっと怖じ気づいてしまうかもしれない。でも、そうした状況を招くきっかけとなるものは、なにも「老衰」だけではない。不幸な事故には遭わないように気を付けたいけれど、自分がいつそうした身になるかはわからない。

 具体的な状況はまったく違っても、たとえば「職場で先輩から引き継がれる継続事業」のような、「延命措置の是非」と抽象的に重なるようなものごとが世の中にはいっぱいありそうだ。

 新しいことは、どんどん問えばいい。

 「問い直さなければならない『継続』」が、探そうとするまでもなく身のまわりに溢れていて、それらの「問い」と「問い直し」こそが、当面の生きる理由にも値する。