それぞれの、花鳥風月

すでにある曲を、オリジナルの通りにやるとなれば、やるべきことは明確です。過不足のない編成と本番の環境を調達し、リハーサル、あるいは個人練習を重ねます。技術が足りていれば、練習なしにできてしまうかもしれません。

すでにある曲を、そのときに合わせてアレンジするとなると、本番のときに有効な状況や編成をよくみきわめてアレンジする必要が出てきます。プロットは用意されているけれど、脚色や演出、せりふなどが決められていないお芝居のようです。味付けする人(編曲者)や、役者(演奏者)の個性が魅力的に伝わるアレンジが問われます。そのうえで、リハーサルないし個人練習が必要になってくるでしょう。

新しく曲を作って演奏する場合は、このプロット、筋書きから用意することになります。どんな編成・本番環境でやるのかがわかっていたらある程度方向性が定まりますが、いっさいを自分で決めて取りかからないことには、出発すらできません。なにをやりたいかが問われるのが、オリジナル作品の底深さです。土台や骨格が組みあがらないことには、アレンジも練習も始まりません。

やるべきことをはっきりさせるためには、なにをやりたいかがはっきりしていなければなりません。

ひとことに「音楽」といっても、途方もなく広い……畑であり、山川谷であり海であり、密林であり空であり、宇宙であり社会でもある……音楽をやる人、鑑賞したり楽しむ人は本当に限りなくいるし、「音楽でなにかを成そう」とする人もたくさんいます。

僕は音楽が好きだし、それに捧げているような人生でもあるのですが、「音楽でなにをやりたいか」「なにを達成したいのか、成し得たいのか」なんてまだまだわかりません。「音楽」に捧げてきた人生を活かして、なにか日々の生活をよりよくしたいというのはありますが、それは副次的なことだと思っています。音楽は山川海であり、星であり宇宙であり、人そのものである……つまり、花鳥風月のようなものである、とも考えます。

花や鳥や風や月…それらは、なんのために存在しているのか?なんて問うことなしに、花も鳥も月もあって、風も吹く、吹く。

人間が人間のために鳴らすもの、目的のために用いる手段としての性格が「音楽」という言葉に込められている(内包されている)けれど、それを鳴らしあっている人間のさま……まさに花が揺れ、鳥がささやき戯れるような……それそのものが、花鳥風月なんじゃないかと思うのです。

薄暗い夜のライブハウスに、地方行政が建てた大中小のコンサートホールに……下宿する大学生のアパートの一室に、家族が囲むリビングに、青空のもとの野っ原に……

日々たちあらわれては、消えてゆく

それぞれの、花鳥風月。