トイレに本を置いています。
用を足すあいだの30秒未満の時間でも、見開いたページの半分だけでも読んだりします。
路上で信号を待つ1分間なんかも、ついついスマホを開いてなにかを見たりしてしまいます。
ちいさな隙間時間を有効に利用するのは、そのときどきで良いこともあります。
隙間時間をみつけると、その時間を埋めるべく、反射的に手が動く自分に気付くことがあります。
そんなときは、本やスマホを開くのをあえてやめます。
ボーーッとしたり、じーーっとして、ただその時間を過ごします。
これが思考にブレーキをかけて、登山にたとえたら夢中でのぼってきた道を振り返るような時間になります。
フゥッと、ひと息つくのです。
隙間時間には隙間時間なりの、「隙間思考」があることに気付きます。
普段時間が足りなくて行き届かないことを隙間時間にこなそうとしてしまいがちな自分ですが、行き届いていないことは「思考」にもあるようです。
行動にともなって、思考もパターン化するのだとわかります。
日々のルーティンは、作業の能率を上げる必殺技にもなります。
同時に、別のなにかを殺してしまう副作用もあるのです。
うまくいかないもどかしさやむずがゆさに出会ったり、登山の途中、空気のよい高所でただ景色をみたり、たばこやコーヒーをのんだりする。
「ゆるみ」をルーティンの中に取り込んで、それも含めて新しいルーティンとする。
マトリョーシカのような入れ子の構造を、ひとまわり大きく外側に作り続ける。
それもときどきほっぽりだして、おもむろに中を開いてしみじみしたり、べつのことを始めてみたりしても良いわけです。
ルーティンの外側に広義のルーティンをみつけるように、自分の外側に広義の「自分」を見いだします。