「詩郎」

僕の名前は「詩郎」といいます。

詩をやっている母親がつけた名前です。

胎児だったときに女だと思われていて、「詩織」になる予定だったとききます。

男でも女でも、僕としてはどっちでもよかったのですが、今の妻と出会って息子とも出会うことができたので、それなりに男でよかったかなと思っています。

名前に「詩」をしょっているだけに、「詩」について考えたり思う時間がそれなりにありました。人と比べたことがないので、その時間が長いか短いかはよくわかりません。

母は詩人でもあり、ピアノの教師です。

僕は自分が「詩人」かどうかよくわりませんが、母のことは「詩人」だと思っています。

「詩」でお金を稼いで食いつないでいくのは、大変なことかどうかわかりませんが、稀なことではあると思います。

主たる収入を「作詩」によって得ている人のみを「詩人」と呼ぶ、と定義したとしたら、この世のほとんどの「詩人」は絶滅すると思います。

生き残った「詩人」は、まるで絶滅危惧種かのようです。

そんな扱いを受けることは本意か不本意かわかりませんが、保護されようと放り出されようと、「詩」を書けば「詩人」です。

それが僕の思う「詩人」の定義です。

むずかしいのは、『なにが「詩」か』というところのように思います。

紙に書きなぐられたり、コンピュータに打ち込まれた「ことば」が、「詩」でしょうか。

「ことば」は声に出して発することができます。むしろそっちが先にあったんじゃないかと思います。声に出して発せられた「ことば」が、「詩」でしょうか。

「ことば」はどこにあるのでしょうか。文字や音声にのみ宿るものとも思えません。態度や表情、一連のおこないそのものが「ことば」たりえることもあるでしょう。空に向かって立ち昇る煙を遠くから見て、情報をやりとりした「のろし」なんていうものもあります。

「詩」は、「ことば」のかたちに限られない。

詩を「書けば」詩人だ、なんて先ほどいったような気がしますが、「書く」にもいろいろあるし、「詩」は「書く」だけのものでもないようです。

おもしろく生きてきたかどうかなんてことは別にして、すっぽりひとりぶんの「僕」でさえ、いくらでも「詩人」たりえるということなのだと思います。

僕が自分を「詩人かどうかわからない」なんていうのには、自分のことだからこその「願望」と現実との間に、なんらかの負い目を感じているからなのかもしれません。

自分を過小にみるのも、過大にみるのもやめにして、まずは、「詩人」になってみろ。

「自分に対していえること」のなかに、「他者に対してもいえそうなこと」を見いだす作業。

それが「詩」なのかなとも思います。

ものの大小を見あやまることなく、ありのままを見つめることから、「詩」ははじまる。