謝罪の無限回廊 〜ミミズさん、ごめんなさい〜

音楽とか文学とか美術とか、なにかしらのつくり手だったり表現者として有名になる人の中には、著しく心身の健康を損ねたり、自殺してしまう人がいる。

有名だからこそそういった事実が明るみに出るだけで、多くに知られずに病気になったり命を絶ってしまう人ももちろんいるだろう。その実状を示すような具体的なデータが手元にあるわけではないので、実際のところはわからない。

身体や心の健康を損ねてまで仕事をしたいかと聞かれたら、きっと多くの人がノーと答えることと思う。先述の、芸に秀でて有名になるような人たちだって、決して心やからだを壊すことをはなから望んでいるわけではないはずだ。

意識的にか無意識にか、というか自らのコントロールを外れたところまで、がんばってしまうのだろう。やれるやれないではなく、やってしまう、行動してしまうのだろう。あるいは、心身を壊す範囲の能力発揮を「やれる」のうちに勘定してしまうのではないだろうか。


僕は平凡だ。

非凡な才能を持った人に憧れる。

一芸に秀でて、有名になってお金がもらえたりしたら楽しいかなとも思う。

そこで。

お前の内臓のひとつやふたつ差し出して、壊してみろ

家族が悲しむか自分が苦しむかどうなるか知らんが、それと引き換えに、有名になれるくらい非凡な能力を発揮させてやるよ

そんなふうにもし、悪魔か神かホームレスか知らんが浮世を超越した存在にそそのかされたとして、僕はきっとこう答える。

「間に合ってますので…」

間に合っている、という言葉はなかなかやっかいである。

いったいなにが間に合っているのか。

「間」ってなんだ。

それはさておき、要は僕は自分で自分の健康を守れてしまうのだと思う。

そうした行動をとれてしまうのだ。

それと引き換えに得ているのが、非凡でも一芸に秀でるわけでもない、平凡な才能と心とからだなのではないか。

結局、人の運命というものは決まっているのだといったような主義主張を「運命論」とかなんとかいうのかはよく知らないが、かれらの主張をあたまから馬鹿にもできないな、とも思う。でも一理あるとまではいいたくない。僕にもミミズくらいの自尊心はあるのだ。著しく矮小なものの例えとして勝手にひきあいに出されたミミズさんたちにはお詫びしたい。僕の一生を捧げても、決して世界中のすべての個体のミミズさんたちのもとを訪れて頭を下げることはかなわないだろう。そのことも含めて心からお詫びしたいと思う。あくまで肉体的にではなく、心から。

矮小な自尊心が運命論を部分的に認めることを拒むという理屈も、言っている側から自分でもよくわからないが、ここでなにか大事なような気がするのは、その「矮小な自尊心」みたいなものこそが、非凡な才能に憧れはするけれどそれを実現させるために必要なことを正しく見極め、的確に行動させることを阻む機能なのではないか、ということだ。そんな機能、お願いしてつけてもらった覚えはないのだが。

これってやはり運命なのだろうか。

あれ?僕はいま運命論者に片足をつっこんでいやしないか?

いやいや自分の運命くらい自分で決めてやるぞと……

矮小な自尊心を自覚してミミズに謝罪、の無限回廊に僕はいる。