そのシャトルバスは果たしてタダか?

ネットやSNS上で、自分にとって許せない発言を探してみれば、かならずどこかに見つかることと思う。僕自身かて、誰かにとって許せないであろう発言や表現をしてしまったことが、今までにあるかもしれない。

今のところ、僕は「炎上」した経験もないし、「炎上」に加わったこともない。

ネットでの発信が人間のすべてではない。情報を黙して受けている人の姿は、ネット上には見えてこない。コンテンツの視聴者数やそのリストが見られるしくみになっているものもなかにはあるけれど、基本的に「反応」を「発信」しないことには、可視化されない。

これがリアルの講義だったりパフォーマンスだったりすれば、おもしろそうにしているとか退屈そうにしているとか、聴衆の「出入り」の様子は一目瞭然だ。

「馬鹿だな」と思うような書き込みを見つけたとしても、通り過ぎるぶんにはなにも反映されない。書き込んだ方はそのことを「無視された」ととらえて、より行動や言動をエスカレートさせることもあるかもしれない。

誰に向かって言っているのかがわからなければ、たとえ不快なものであっても無視できてしまう。こちらからアクセスしなければそれでいい。現実の自分の家の前で不快な音声を発する人が陣取ったりしたら、そうはいかないだろう。なんらかの手段を用いてやめさせる必要がある。

「炎上」に加担するという心理がどうもわからない。無視すれば良いものを。顔も姿も見えない相手を攻撃することになんの意味があるのだろう。過ちを犯した者に、裁きを下してやろうという心理なのか。どうしてその人に、他者に対して裁きを下す筋合いがあるのだろう。犯罪の被害者が加害者に復讐、というわけでもない(復讐の是非は別にして)。縁も怨恨もない不特定多数が反応して、燃え上がるように広まるのが「炎上」である。直接関わりのある人どうしだけが私的にやり合えば済むようなことが明るみに出て、社会問題かのように語られることさえある。広く知られていなかっただけで、本当に解決すべき問題が共有される機会になる場合もあるし、ただ不快な醜聞と野次が拡声されているだけのこともある。

個人対個人の間でのメールのやりとりだったとしたら慎まれるような攻撃が、個人対集団になると平然とおこなわれることがある。最初の一手を皮切りに、なだれ込むように便乗が続く。

歩こうと思ってたけど、無料のシャトルバス出てんのね。だったら俺も乗るわ……

くらいの感覚で、自分も乗らなければ損をする、とでも思うのだろうか。

行列ができている、というだけで、そのお店の商品やサービスが、さも誰にとっても価値の高いものかのように見えなくもない。行列には、価値を装う機能があるらしい。

人のいないところにこそある価値に、気づけない人が多いのかもしれない。

ネット上の「私刑」にまつわる問題について考えると、「個」と「群衆」というキーワードに行き当たる。