ぼくの就職活動

まともに就職活動をしたことがありません。

それどころか、まともに働いたことがない…とまで言ったら言い過ぎかわかりませんが、少なくとも週5日フルタイムで働いたことがありません。

ふと思い出します。

浪人生のときだったか、居酒屋のバイトの面接に行きました。地元の町のチェーン居酒屋でした。女性店主が面接に出てきました。その髪を切れるかと聞かれて、僕はその場ではっきり「切れません」と答えたら、その場で不採用の意思を告げられ、面接は終了。時間にして1分にも満たなかったでしょう。当時の僕の髪が長いか短いかわかりませんが、目にも耳にもかかる長さだったことは確かです。募集要綱にそのへんの記述はなかったように思ったけど、もはや自分が何を見て応募したのかも、よく覚えていません。あちらは髪以外の点で僕について、なにを見たのだろう。不快な気持ちと憤りを覚えもしましたが、こちらから願い下げだとも思ったし、「自分の仕事じゃない」と潔くあきらめました。飲食店ですし、誰を雇うかなんてあちらの自由ですから、あとになってみればなんとも思わないエピソードですが、当時はたいへん腹立たしかったし、卑屈な思いをした記憶があります。僕が潔くものごとをあきらめたのは、後にも先にも「居酒屋のバイト」くらいかもしれません。

僕は人生のほとんどの期間を、おおむね同じような髪型で過ごしています。毛の生え方や髪質がコロコロ変わるわけありませんし、髪型が頻繁に変わる人の方がどちらかといえば少数派かとも思います。

今の髪型で損したことと得したこと、一体どちらが多いのだろう。表面的なことで得することなんてのは、表面的なことで損することに支えられる程度のものでしょう。いずれにしても表面的な部分ですから、自然にしたいようにすればいいことです。こんなことを考えること自体が不毛に思えます。なるようになっていることでしょう。

「見せ方」に気を遣うのが、ファッションやらラッピングでしょうか。本質があって、外側の装いがあるのが順番だと思います。

僕はすぐに、方法や手法・形式といったものに目先を奪われます。なにか達成したいことや理想があって、それに近づく瞬間があることに気付くと、すぐさまその時や前後の状況の分析を始めます。それは具体的な身体の使い方だったり、体調や自己管理の方法・手法、道具の使い方だったりするのですが、その分析によってはじき出した「うまくいったときにこうだった」という条件に頼ろうとしてしまい、すぐさま目を奪われて、「理想に近づくことの出来た瞬間を分析したらこうだった」というだけなのに、「その状況を再現すること自体」を目的と勘違いしてしまいます。

たとえばエレキベースを演奏するときに、仮に「とあるフレーズを狙った通りに演奏する」のが目的だとして、そのためには「ある瞬間になるべく指を弦に密着させておくとよい」ということがわかったとします。するとすぐさま僕は、その状況の再現こそが自分の至上目的になってしまい、本当に大事な「狙った通りにフレーズを演奏する」ということを見失い、結局失敗するのです。「うまくいったときの状況を分析するとこうだった」という根拠から、その状況を再現することを目指して動こうとすると、その時点で「うまくいったときの自分」とは差異が生じているようです。

刻々と状況は変化しますから、とにかく過去の手法は結果的にそのとき通用しただけ、ということになります。現在の僕らにできることは、その瞬間その瞬間に反応・反射することだけなのかもしれません。

自分は「動いて」いるのか?

「動かされて」いるのか?