正解のないパズル

学者が知っているのは、過去のことだけ。

とある分野の専門家の本を読んでいたときに、遭遇したことばです。その著者は講演会などに出演すると、高い頻度で聴講者から聞かれるんだそうです。「これから(未来)はどうなるんですか?」と。それに対する答えとして、冒頭の一文を伝えるんだそうです。言われてみれば、過去のことしか知らないのは、学者だけでなく、誰だってそうですよね。

そういう予言や予報のようなものを知って、準備したい、対策を立てたい、損害を避けて、利益を享受したいと、多くの人が思うのかもしれません。そしてその気持ちのどこかに、「他の誰が損をしたとしても、他の誰が利益をとり逃したとしても、自分だけは利益を逃さず、損失を遠ざけたい」という想いがあるんじゃないかと。

最近すこしばかり、憲法や安全保障に関する情報を自分から集めています。僕の知り合いの中でいくつかの方面から、そうしたことに関わる活動に参加しているという声が聞こえてきたので、気になって調べているのです。

武力をもつことで自分の身を守ることは、さきほどの「他の誰が利益を逃そうとも、損失を回避できなくとも、自分だけはそうならないように…」というのと同じ気持ちを根底に持つ方針なのではないかと感じました。

安全保障について調べるなかで、あえて自分(自国)を制約し、他者(他国)と協調して、抜けがけをしたりしようとする者がいたらみんなで止めようという考え方があることを知りました。それを知って、日常、僕自身も「この先どうなるの?どうしたら得できる?損しない?」という不安や期待に答えてくれそうな情報を気にかけていて、心のどこかに「(誰かを出し抜いてでも)」という気持ちが確かに存在していることを自覚したのです。「心のどこか」どころか、いちばん奥深く、その中心に鎮座しているかもしれない…とさえ思います。だから、先に述べた安全保障に関する考え方を知って、価値観がくつがえったような驚きがありました。今さらながらだけど、ああ、自分さえよければいいと思っていたんだなぁ、と。その気持ちに根ざした行動や選択が、これまで自分や周囲の人をどれだけ貧しくさせてきたことでしょう。「これまで」を知って、分析して、「これから」を良くすることに努める、ひとりひとりが果たすべき役割があるように思います。学者や研究者や専門家にだって、いろんな考えの人がいます。彼らによって見つけ出される知識があったとしても、それらをどう組み立ててどう考えるかということは、ひとりひとりに委ねられていることです。くれぐれも、自分だけじゃなく、みんなにどう影響し、どのようにまわっていくのか、長い期間に渡る因果を視野に入れた考えに基づいて、行動していくべきなんだと思います。

理想に掲げたものは、現実に引き寄せていかないとふわふわ漂ってどこかへいってしまいます。間違ったり失敗したり、思った通りにならないことはいくらでもあるでしょうけれど、過去(これまで)に学べることを見過ごして行動した結果、「失敗しました」では済まされないこともあります。人の命に関わるようなことがそうでしょう。

自分の「生きる」も、他人の「生きる」も、保障するためのしくみづくり。それに関わらないでいていい人なんて、ひとりもいない。