「生命感」が目を奪う

生存のために食べる。生殖のために交わる。

それらを保ったり勝ち取るために、攻撃したり守ったり、奪い合い争ったり、身を引いて危険を避けたりする。

そうした行為があらわになる瞬間を目撃すると、社会生活に慣れた僕らは、普段は覆い隠されがちな「生命」を感じるのかもしれない。攻め込んだり機会を仕掛ければ積極的な「生命感」だし、守ったり回避すれば消極的なそれである。どっちであろうと、みんな「生きる」ために「必死になる」瞬間があるようだ。なんだか生きようとしているのか死のうとしているのかよくわからない表現だけれど、結局のところみんな、生きて、死ぬ。


個々の生命感をむき出しにしないことで、なるべく集団で、なるべく均一に生存や生殖にありつくやり方が、人間の築いた社会のしくみと重なる部分がありそうだ。これにはそうとう「知恵」がいる。ほんとうに「生」に通ずるために機能するものこそが、「知恵」と呼ぶのにふさわしい。「知識」が生命感をもって律動した状態、と言い換えてもいい。


ムダ知識などと呼ばれるものがある。雑学とも言われたりする。知識を拾うだけの行為を「学び」というには足らない。「雑学」はじつは「その道」の知略的な謙遜であって、究極の「実学」とも言えるのかもしれない。知識だけで役に立つものなんてないから、本来知識はすべてムダである。「ムダ」という冠は、知識たちによる、知略的な謙遜なのかもしれない。言葉に主体性を持たせると、なんだかわけがわからなくなる。ほどほどでよしておこう。

「知恵」をもつのはなにも人間だけでない。多くの動物が知恵をもって、命をつないでいる。植物はなんか黙りこくって静か。よくわからないようにも見えるけれど、ほかの物体や生命体を取り囲むように覆いかぶさったり、動物を利用して命をつなぐ様子をかんがみるに、いちばんの策略家なのかもしれない。策略「家」なんていって、なんでもすぐ人間や動物の世界に引き寄せて考えようとするから、思い上がったものである。植物は思い上がりもしないだろうし、思い上がったやつを冷ややかな目で見たりもしない。…と、瞬時にまた動物的な思考が支配的になる。しょーがないわな、動物だもの…と、割り切るのも動物である。いや、このあたりの些末でどうでもいいレベルの思考になってくると、人間特有のものかもしれない。人間特有のものが、尊く貴いなんてことはない。むしろ人間にしかないものほど、些末でどうでもいいものなのかもしれない。

「生命感」に目を奪われる理由は、そこにある。