等間隔の小枝

死というものをおそれる機能がなかったら、生物の寿命は全体的にもう少し、短くなるでしょうか。

「死」という概念について、個人によってとらえ方が異なるところがあるかと思います。同時に、何をもって「生きている」とするかも、認識が人によって違うところもありそうです。

死んだら、会えなくなるのが寂しいと思います。

生きていても、簡単には会えなかったり、生きているか死んでいるかわからない相手もいるかもしれません。

生き物を「秩序」の側面でとらえる見方もあります。

物質がとくべつな規則をもって、寄りあつまっている状態。

「エントロピー増大の法則」という言葉を聞いたことがあります。基本的に自然界が無秩序に向かっていくのだとしたら、規則めいて物質があつまってできている生物は、ひどく不自然な存在にも思えます。僕は「エントロピー増大の法則」を間違って解釈しているかもしれないし、よくわかっていないかもしれない。


地面の上に等間隔に小枝を置いたとします。

放っておいたら、なかなか自然界に勝手に現れる状態とは言い難い。

やがて風に吹き飛ばされてなくなってしまう、小枝の等間隔。風が吹く前に、子供が蹴飛ばすかもしれません。

小枝を等間隔に置く「私」は、寝るし食べるし糞するし、体温を保っていて、いかにも生物っぽいけれど、小枝が等間隔に置かれた状態そのものも、何か「生きている」という定義にふれるなんらかの要素を含んでいるようにも思えます。

程度の差こそあれ、生きているかぎり、私たちは「小枝を等間隔に置く」ような活動をひっきりなしにしています。意識していなくても、この「私」自体が、はたから見れば「等間隔に置かれた小枝」のような存在だともいえそうです。食べなければ死んでしまうから食べるし、意識して自分に命令しなくても、勝手に呼吸を続けるし心臓は脈を打ち続けます。

それもそのうちに限界が来るか、風に吹かれるか子供か猫か蟻んこか烏に蹴飛ばされたり運ばれるなりして、ばらばらになってしまう。

等間隔に置かれた小枝のようなものも、場合によってはうつくしく思える。それでいて、人の手が入っていない自然の景色を見ても、うつくしいと思ったりする。

「人の手」が入っていなくても、なんらかの生物的活動、「秩序」めいたものの表れが自然界そのものなのでしょう。

人間に生まれた、私。

人と人の「間(あいだ)」に生まれて、「人間」になるのか。

枝と枝の間に置かれた小枝と、たいそうな違いはないとする


そんな、ものの見方もできる。