もぐらの世間話

知っていたけれど気にしなかったようなことでも、ちょっと違った目のつけどころからの紹介だったりすると、自分でも興味が持てるかもしれない、なんて思ったりもします。



世の中には、頻繁に話題にされることと、そうでないことがあります。


少し気になるのは、それらの間に格差のようなものが生まれやしないか、ということです。


誰も話題にしていないようなことを急に言いだしたら、変な目で見られやしないか。


共通の話題にしても、まるで違った意見を言ったら、「お前はおかしい」「違う、そうじゃない」と叩かれやしないか。


僕は、たくさんの人があたりまえのように口にする話題に、積極的になれないことがあります。


いや、正確にはそうではなく、たくさんの人が口にしようがしまいが情報や話題に対して平等なスタンスでいるつもりではあるのですが、「これが今のトピックでしょう!(これが『みんな』の話題でしょう!)」みたいな、「ご時勢の押し付け」「多数派の押し売り」みたいなものを感じる局面が少なくありません。



「自分だけの楽しみについて、コッソリ話してくれる」みたいなのが、僕は好きです。


そういうことを話してくれる人は多くはないし、僕だってその中の一人であることがほとんどです。


もっといろんな話題が自由に飛び交っていいし、なんでも言い出しやすい雰囲気が、少なくともこの国にはもっとあっていいんじゃないかと思います。「この国」なんて漠然と言ったけれど、僕に感知できる範囲の「この国」はごくわずかでしかない。見方を狭める方向性に人を流していく性質が社会にはあるのではないかと疑いたくもなりますが、それはたまたま僕という個人が怠け者で流されやすいだけかもとも思いますけれど、少なくとも「慣れる」「情報の処理や手間を簡素化する」機能が備わっているのは、人間全般についていえることなんじゃないかなぁと思っています。


すでに取り上げられている話題、聞いたことのある意見に乗っかることは、表面的にはリスクの少ない安心な選択かのように見えますけれど、そうした傾向を利用して、たくさんの人を一定の方向に流し込めようと意図的に情報を発したり(不確かなものや嘘も含まれる)、感情を煽って人を動かそうとするような手法もあることを自覚して、話題を受けたり発したり、真に受けたり聞き流したりする必要があるように思うのです。


そんなことわざわざ言うほどのことでもない、言われなくてもそうしている、という人も多いかもしれませんが僕に感知できる範囲では目立ちません。常にあるから目立って見えないのか、僕の感知する範囲が狭いのか


狭い範囲をもっともっと深く追究する、掘り下げるような「楽しみ方」があります。そうした世界の「話」は、なかなか聞こえてこない。


そうした「楽しみ方」がとがめられたり、きゅうくつになるような世の中にはなってほしくないなぁと、個人的には思います。