愛情の気圧配置

222日は猫の日でした。


猫と自分の息子(19ヶ月)を並列に語るのはちょっと乱暴かもしれませんが、じぶんの子どもも「愛情を支払ったぶんだけ苦労させてくれる」ようなところがあるんじゃないかと思います。


子育て中の親、中でも片親は「時間の貧困」なんて言われて、本当に余裕のない気持ちで過ごしている人も多いかと思います。自分の子どもに愛情を支払う時間さえもなく苦労しているとしたら、いったい何に愛情を支払っているのでしょうか。そもそも支払うための愛情のストックがない、ということだったりするんでしょうか。


仮に愛情が、他者から貰うことでしかストックできないとしたら。親からもらった愛情を、子どもは成長して大人になって、自分が親になってまた子に託す。親の親の親の親とたどっていったら、最初は愛情はどこにあったのでしょうか。人間が何代も何代もかけて、すこしずつすこしずつ世界のどこかから集めて、からだの中に蓄えては託して来たのでしょうか。


愛情は何も人間どうしだけのものではないでしょう。動物と人間、動物どうしの間でも託し託されがおこなわれていることと思います。植物はどうか?イメージがしづらいところですが


猫を飼ったことがないので、私的な暮らしの範囲の中で、かれら猫との間で愛情のやりとりをした経験を持ち合わせていません。


友達の家の猫だったり、野良猫だったりするものたちと接触したことはもちろんあります。とっても可愛いし気まぐれだし、自由でいて何か「的確」で、偏見や押し付けのないクリアな生き物だなぁと、不可侵な距離を隔てたところから見ていて思うことはあります。


彼らと関わりを持つことも、他の何ものにも代え難い貴重な体験であり、学ぶことや気づくことも多いのだろうと想像します。


最近の僕はメダカ1匹、飼うこともしていません。


最後に何かを飼ったのは、3年以上前に釣り堀で釣って来た金魚でした。ベランダにバケツを置いて、水を替えたり餌をやったり世話をしましたが、何ヶ月かして死なせてしまったっけ。


あの金魚との間に、確かに愛情はあったように思います。僕の方が一方的に支払って、苦労をさせてもらっていたかのように思えますが、金魚も人知れず苦労していたのでしょう。命を賭して、亡くなってしまったわけですし。


誰かの苦労の存在は、すなわちそこに愛情が存在しているということでしょうか。


苦労をかけさせて愛情を支払ってもらう瞬間も、生き物が生きていく上で必要な気がします。


「愛情」は、「すきま」をいつも探しているのかもしれない。